ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン・フィルはチケットを取るのが難しいからと、すっかり出遅れていた我が家だが、指揮者のキャンセル続きでついにチケット払い戻し、それを受けての再発売。しかも、指揮者がプレートルときたら、何としても聴きたい!

ということで、11月10日にサントリー・ホールで聴いてきた。プログラムは、シューベルトの交響曲第二番とベートーヴェンのエロイカ。

プレートルはオペラが得意なだけあって、「呼吸」で指揮をする。指揮者に派手なパフォーマンス性を求めるタイプの音楽ファンにとっては、見た目は地味なので少し物足りないかも知れない。けれども、音楽は打点でできているのではなく、呼吸でできているのだ、ということをこれだけ素敵に示してくれる指揮者は、そういないのではないだろうか。「自分はこういう音楽を創りたいから、あとは皆さんよろしく」という感じで、指揮者はきっかけを作るだけで、あとはオーケストラに任せる指揮。楽団員もさぞやりがいがあることだろう。

あれだけの歌心が、常に一定の振り方で表出されるとは考えにくい。だから、きっと、振る度に違うのだろうと拝察する。呼吸の指揮だから、さすがによく反応していたのは管楽器のほう。でも、弦もヴィオラ以下の中低弦がよく支えていた。

それにしても、あんなに自由なエロイカは初めて聴いた。この曲は割とかっちりした演奏が多いし、変拍子も多用されているから、譜面通りに弾けばちゃんとした演奏になり、だからと言ってそれで特に退屈になるわけでもない。それを、あんなに自由に歌い、かつそれで崩れるどころか、新鮮なエロイカになるのだから眼から鱗だった。

怒涛の第四楽章の掛け合いがひとしきり終わってオーボエのソロが出てくる頃には、聴いていても弾いていても「あぁ、そろそろ終わる~」と思うのだが、当夜の演奏は、そんなことを考える暇もなく、あっという間に終わってしまった感じだった。

そんな素敵な演奏会で特筆したいのが、当夜の聴衆の質の良さ。空席がないわけではなかったが、それだけに、客席を埋めていたのは本当にプレートルのウィーン・フィルを聴きたい人ばかりだったように感じる。拍手も、「フライング禁止」といった変な緊張を強いることなく自然に沸き起こり、それがどんどん熱くなっていく、という風だった。客席で受け取ったこの幸福感は、きっと指揮者と楽団員にも伝わっていることだろう。音楽の享受という点でも、まれにみる体験だった。私は二階席だったので一般参賀はかなわなかったが(笑)、二階から手を振ってしまったheart04。チャーミングなプレートル翁に乾杯wine(2010/11/12)

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光の粒子? 色素の粒子?

私は根っからの文系人間なので、タイトルのような言葉には無縁の生活を送っているのだが・・・

「光」で考え込んでいるのは、息子の言葉。2歳くらいの、まだ言葉もロクにしゃべれなかった頃、彼はよくアイスコーヒーにミルクを入れるのを見て「カーテン」と言っていた。あの、ミルクが小さな渦を巻きながら沈んでいく様子が、カーテンが風にひらめく感じに見えるのかな、とずっと思っていた。

しかし、一年ほど前だろうか、あれは、朝カーテンを開けた時に、部屋に光が差し込んでくる様子だと言うではないか! これには、本当に驚いた。コーヒーが闇の部分で、ミルクが光だと、はっきり言うのだ。彼には、光の粒子の動きが見えているのだとしか思えない。そういえば、色彩の微妙な差異にもうるさい人で、とても小学生とは思えない渋い(濁っている、というのとは全然違う)色彩で絵を描いたりするので、光と色の人なのだろう。我が息子ながら、凡庸な母には想像するしかない。すまぬ。

そんな私も、最近、通っているデッサン教室で水彩に挑戦するようになった。木炭でのモノクロの世界でも、光と影の濃淡の深みにはまっていたというのに、色彩あふれる迷宮にまよい込んで、いささか困っている(笑)。

Photo_3モノクロ時代の総決算?となった、この水牛のしゃれこうべは、プラスチックの模型ではなくて本物だったので、眼窩の中や眼の下の表面の質感など、興味深く観察しながら描いた。某解剖な方にもお褒めの言葉を頂戴したが、歯科な方でもあるその人には、「歯は適当に描いただろう」とズバリ言われてしまった( ̄◆ ̄;) 。リンゴがチャーム・ポイントだと自負している。

Photo_4そして、水彩の第一作目がこれだ。 この、なんということのない静物だが、問題は机の色。よく会議室においてある、あの長方形の机なのだが、師匠曰く「単に茶色っていうだけじゃないでしょう。よくよく見てみると、紫っぽい色も混ざっているよね。そういう所までよく見て塗らないと、物と机とがバラバラになっちゃうから」と。

「ええ~」と思ったが、茶色に紫を混ぜて塗ってみると、確かに落ち着いた感じになった。

Photo_6 しかし、水彩第二作目の、この剥製。まだデッサンの段階だが、 この鳥は、お腹が白く、背中がブルーグレー。「あの綺麗なブルーを表現できるといいね。あとは、止まっている木なんだけど、あれも茶色の濃淡だけじゃないでしょう」と先生。「影の濃淡も、っていうことですか?」と私。「もちろんそれもあるけれど、あの鳥のブルーが映ってきて、青っぽい色も見えるよね」「ええっ、すみません、私にはあの中に青色は見えない~」「いや、よーく見てください。茶色だけじゃない、いろいろな色素が見えてきますよ。」

お腹が青いのなら、まだ解るけれど、どちらかというと、お腹の白に、木の茶色が映る感じなのではないだろうか・・・・と困惑してしまうが、この師匠も光と色の鬼(笑)なので、私などには到底理解の及ばない、色の粒子が見えているのだろう。

センスというものは、努力は当たり前のことで、その先にあるものだと痛感する。事業仕分けに代表されるルサンチマンの蔓延している昨今、謙虚に受け止めたいものだ。(2010/10/30)

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新国立劇場『アラベッラ』

10月2日、新国立劇場でR.シュトラウス/ホフマンスタール作『アラベラ』の初日を聴いた。

『アラベラ』といえば、一つ目の(笑)修士論文のテーマに選び、その後博士課程にいる時にも、慣習的なカットの及ぼす影響について一本小論文を書いたことがる。そういえば、新国立劇場のこけら落とし公演でもあったこの『アラベラ』、その時に初めて公演プログラムの原稿を書いた、思い出の作品だ。

さて、そのような思い入れのある『アラベラ』だが、上記のカットについて書いたのが2000年で、それ以来あまり聴いていなかった。今回、久しぶりに聴いて、「やはり良い作品だ」と改めて実感した。「良い作品だ」と思えるには、良い演奏でなければならないものだが、当夜の演奏は、歌手もオーケストラも素晴らしかったのである。

アラベラ役のミヒャエラ・カウネ、ズデンカ役のアグネーテ・ムンク・ラスムッセンの姉妹役が、それぞれの役柄に良くはまっていて、歌にも説得力があった。第一幕の「でも、相応しい人が」は、民謡的なメロディーの素朴な美しさと懐かしさで有名だが、アラベラの“乙女の憧れ”が歌われるこの場面で、それを聴いたズデンカが「やっぱりお姉さまが大好き」となってしまうのが、少々都合良い「姉妹愛」なのでは?と思わないでもなかったのだが、弱音(じゃくおん)をとても大切にし、響きを抱くように綺麗な声で丁寧に歌い上げるカウネのアラベラは、ズデンカならずとも「あなたのためなら力になるわ」と思わせてしまう魅力を示してくれた。

マンドリカ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーも、朴訥で短兵急なこの役柄に合っていたと思う。慣習的なカットによるところも大きいのだが、たいていの場合マンドリカという男は、「アラベラの裏切りに対する疑惑に苦しむが、誤解が解けてアラベラと結ばれる」という側面が強調されることで、「女に翻弄される可哀想な男」として得をしている部分がある。しかし、この公演では、細かいところまでは確認できないが、あまり通例のようなカットが施されていなかったようで、実はマンドリカがアラベラに対して侮辱的な言葉をしつこく吐き、それでもアラベラはマンドリカへの誠意と、ズデンカに対する愛情、そして自分自身のプライドを保ち続ける、それゆえに、ラストの、マンドリカを赦し水を満たしたグラスを捧げる場面が感動的になるのだ、ということが良く解る舞台になっていた。

また、第三幕でのアラベラとズデンカの大切なやり取りもカットされていなかったと思われるので、互いが互いを必要とし、それぞれが学びあったことでハッピーエンドを迎えることができた過程もきちんと描かれていた。今回は上演時間が少し長いのだが、この作品の本当の魅力を知る上では必要な長さだということだ。

ウルフ・シルマー指揮の東京フィルハーモニー交響楽団も大健闘で、幕開けから、「あ、このモチーフはもうこんなところで鳴っていたんだ」「あそこでもここでも、こんなモチーフが・・・」と、新たな発見をさせてくれた(そんなこともなかなかないと思うのだが・・・)。なにより、“シュトラウスの響き”を紡ぎだしていたことは特筆に値するのではないだろうか。

さらに今回の再発見は、マッテオだ。マッテオ役というのは、テノールの役ということもあり、個人的に「それって、どうよ」というところの多いキャラクターなのだが、オリヴァー・リンゲルハーンの演じるマッテオは、恰好よかった。第三幕で、「すべての責任は私にあります」と言うところも、「それでこそ男だ!」と喝采を送りたくなるようで、この役を少し見直した。

アラベラの父親ヴァルトナー伯爵役の妻屋秀和も秀逸。滑稽でありながら人情味のある、娘たちのために一生懸命な父親の側面が出ていて、これも、これまでの「金のために娘を売った父親」というばかりではない役柄を見直すきっかけになった。ドイツ語のセリフもけっこうある役だが、よくこなれていて自然にこちらも楽しめた。

上記のように、カットを少なくすることで作品のテーマを丁寧に描き出していたことと、歌手たちとオーケストラの双方が、音と言葉の響きのひとつひとつを大切にしていたことで、この作品の魅力を最大限に引き出していた。海外のプロダクションであっても、ここまでの成功はなかなかないかも知れない。かつてこの作品解釈で艱難辛苦した身にも、夢のような感動が沁みわたる素敵な舞台だった。(2010/10/04)

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「文学の仕事」(加藤周一)

タイトルに掲げた題名の文章は、加藤周一氏の『私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ』(岩波現代文庫)に収録されている。

 「文学がなぜ必要かといえば、人生または社会の目的を定義するためです。文学は目的を決めるのに役立つというよりも、文学によって目的を決めるのです。」

という書き出しで始まるこの文章、少しあとに

 「どうしたら経済的にうまくいくか、みんなが豊かになるかというのは、科学技術から出てくるかもしれない。家が大きくなって庭が広くなる。しかし、ではそれから何をするかということはそこからは出てこない。もう少し長期的にある生き方を選ぼうとするならば、そのときに参考になり得るのは文学だと思います。」

という件がある。現在は未曾有の経済危機だと言われているが、そうではなくて豊かな時代であっても、「その先」を真剣に考えている人はそう多くはないのではないだろうか。少しでも時間が空けば何か予定を入れて、立ち止まることがない。立ち止まることは「停滞」とみなされ、前へ前へと進むことが正しいことだと推奨される。その余裕のなさを私は危惧する。

本文中ではさらにこの後、孔子の牛の話が例に出てくる。この話は、聖書の中の「放蕩息子」の逸話に似ており、目の前で苦しんでいる一頭の牛を助けることに意義があるか、ということが問題になっている。「たくさん〔の牛が〕苦しんでいるのだから一頭くらい助けてもしようがないという考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが前提にある」としながらも、その前提では「なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない」と指摘する。そして、やはり「出発点に返」って「目の前で苦しんでいる一頭の牛を助けることが先なのです」と言う。

周知の通り、加藤氏は東大医学部の出身である。医師である加藤氏のこの言葉には重みがある。事実、このすぐ後の段に「一人の人の命が大事でない人は、ただ抽象的に何百人の人の命のことをしゃべっても、それはただ言葉だけであって、本当の行動にはつながっていかない」と述べている。大病院で多くの受け持ち患者を抱え、「一分一秒も無駄にできず」一人一人の患者にいちいち対応するのには限界がある、そんなことをするよりも一人でも多くの患者を救うほうが先決だ、という大義名分のもとに、個々の患者の意思は事実上無視されているのが現状だ。ちょっとした口先だけで「患者さんのことを慮っています」というようなことを言われても、それこそ「本当の行動にはつながっていかない」ことを、私自身ごく最近痛感したばかりだ。

加藤氏は、「一頭の牛」「一人の人」の命が何故大切なのか、個はすなわち全体であるということ、それをわかるための目的が文学的目的なのだと言っているのだが、「文学は生命に直接関わらない」と一般に見なされているのにも似て、「一人の人の命」を救うことが原点のはずの医師達に「個はすなわち全体である」との意識が希薄なのには慨嘆の念を禁じえない。さらに言えば、単に生命さえ救えば良いのではなく、「なぜ牛が苦しんでいるのか」ということまで理解しようとしないと、それは治療とは言えないのだが。

加藤氏はこの後に、黙っていれば助かったものを、ナチスの将校の前で自分が俳優であることを証明して見せ銃殺されたポーランド人の例を挙げ、

 「自分の物理的な死よりももっと大事なもの、生命よりももっと大事なのは自分の俳優としての誇りです。」

と述べる。一般には、物理的な生命以上に大切なものはない、という価値観が共通認識としてある。しかし、個人には「絶対に譲れない一線」というものがある。それを直接生命に関わっている医師が、意外と一番解っていないようだ。恐らくは、時間に追われ余裕がなくなっていることも関係しているのだろう。しかし、いま言われている「医療不信」とは、そう大仰なことなのではなく、そういう医師「個人」の無理解が根にあるだけの話なのではないだろうか。時間に追われ立ち止まることのない医師には、加藤氏の言うように「出発点に返」ってほしいものだ。

 「放っておけば、(・・・)牛も息絶えるかもしれない。あるいは俳優としての自分のアイデンティティが壊されるかもしれない。そういうときに、最後に自分のほうに引き寄せるもの、そこに文学の力があると思うし、そのことを文学者が語らなければ誰も語らないと思うのです。」

つまり、「個」を「全体」にまで敷衍しうる力を持つもの、それが文学のもつ力であり、「全体」のために「個」を犠牲にするあらゆる組織・権力・無理解に対抗し、個人たる「私」が自己を見失わずにいるための術なのである。(2009/10/26)

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音楽的イン・テンポ

音楽的イン・テンポ、というのをご存知だろうか。「音楽」と「イン・テンポ」というと、メトロノームを思い浮かべるかも知れない。しかし、カチカチ・・と正確な幅でリズムを刻み続ける、あのメトロノームでは計れない「イン・テンポ」というものが楽曲中には沢山ある。アゴーギグや明らかな感情の表出としてのリタルダント、アッチェレランドなどとも違い、聴いている限りではあくまでイン・テンポで演奏されているように進行するのだが、もしそれをメトロノームなどの尺度で計ってしまうとイン・テンポではない、逆に、メトロノーム通りに正確に演奏してしまうと、音楽的にかえっていびつに聴こえてしまう、という状況が音楽では多発する。

つまり、「イン・テンポ」であっても、時間は伸び縮みしているということだ。このことは、何も楽曲作品の中だけの現象ではない。日常の営みの中でも全く同様のことが言える。というより、「時の芸術」たる音楽は人間の営みが反映され昇華された芸術形態なのだから、当然と言えば当然だ。

私がこのことを実感したのは、実は今年初めて「バーチカルタイプ」の手帳を使ってみたことがきっかけだった。小学生の頃から数字が苦手で、時計もデジタルではなくアナログタイプでないと、試験のときなど「あと○分」という時間が具体的にイメージできなかった私(笑)には、このバーチカルタイプの手帳は、「時間の幅を塊として見ることができる」という点で、理想的に思えた。

まあ確かに悪くはないと思う。特に予定が立て込んでいている時などは書き込みやすくはある。しかし、ここからは個人差だと思うが、その「立て込んだ予定」を見直しやすいか、というと、決してそうではなかった。何だかかえってごちゃごちゃしてしまい、大切な用事も隙間時間にちょちょいと済ませておけば構わない程度のついでの用事も、全部いっぺんに同じだけの密度で時間を費やすべく迫ってくるような圧迫感を与えるだけだったのだ。そうならないためには色分けをしようだとか、To Do リストを作ろうだとか、いや Not To Do リストをこそ作るべきだとか、いろいろなことが言われているが、色分けもしすぎると「ごちゃごちゃ」を増すだけだし、そんなリストをちまちま作る暇がないから忙しいんじゃないかい、と言いたくもなった(要は面倒くさがりなだけなのだがcoldsweats01)。

何故そうなってしまうのか。それは、一日が一時間なり30分なりで均等に区切られている紙面のせいだ。つまり、この「均等さ」が、メトロノームの均等さと同じなのだ。本当は豊かで生産的なはずだった「ある一時間」も、バタバタと雑用で過ぎてゆく「単なる慌しい一時間」と同等の幅にされ矮小化されてしまう落とし穴がここにはある。

この、メトロノームのように均等にコマ割りされた時間を、自分自身の「演奏」で彩り、強弱や長短をつけなければ意味がない。つまり、緻密なリストを作ったところでプライオリティが一目瞭然でなければ意味がないということだが、それでも、視覚的効果というのは馬鹿にならず、濃密な時間も空疎な時間も均等に並んでいると、強弱も長短も濃淡も認識しづらくなってしまうものだ。そしていつの間にか「今日も山のようなタスクをこなせた!」という事実にのみ達成感を感じるようになってしまう恐れもある。「・・・でも、その山の内容は?」「どんな木が生えてた?」「どんな動物がいた?」「鳥は鳴いてた?」・・・それが判らないくらいの忙しさであったなら、「こなせたはず」のタスクのクオリティも甚だ怪しくなってくる。手段が目的化してしまう典型例だ。「私はとにかく忙しくて過ぎたことは振り返らない主義だ」と豪語する人もいるが、振り返りをしない人というのを、どんな職種であれ私が信用できないのは、そういう理由だ。「やりっぱなし」は、山に独りよがりという名のゴミを捨ててくることと大差ない。

私は現在、文字通り「生命がけ」で文学研究を細々と続けているのだが、その中で思うのは、自分の大切な人にしわ寄せを受けさせてまで、今やっている「仕事」が本当に「自分にしかできない」価値があるのか、と立ち止まることの大切さだ。「この仕事をやるのは今しかない」と思うのはよくある状況だとは思うが、例えば子どもを持っているのなら、子どもの「今、この時」は絶対にもう二度とやって来ないことをどう考えるだろうか。子どもの生命の輝き、その時の年齢の持つ雰囲気、それは写真に撮って残すことはできても、共に生きた時間を過ごすことは二度とできない。それに比べ、仕事の「今」は、実はやり直しも代替要員もきくことが大半だ。子どもの「今」とひきかえてまで、その「仕事」を取ることを自分は本当に選ぶのか。

もちろん、その選択肢も事情も人それぞれだ。やり直しが事実上きかない仕事もあるし、これにかけては他の人では駄目だ、というくらい優秀な知人も実際に何人か思い浮かべることができる(ちなみに全員が母親だ)。働かなければ生活が成り立たない場合も否やはないし、それでもやはり自分は仕事を取ると言うのであれば、それは立派な選択であり、もはや他人がとやかく言う筋合いではないのも当然のことだ。だが、その場合でもあらゆる状況と可能性は常に変化をするのだから、立ち止まって自分の選択肢を見つめ直す必要は依然としてあるだろう。

それよりも私が一番気になっているのは、子どもを持つ女性の多く、特にこれから仕事をしようか迷っている人が、「自分のための(仕事の)時間」のほうが、「子どものために費やす時間」よりも多くならないと、「自己実現」ができておらず「ワークライフバランス」が取れていない、と感じるように仕向けているとしか思えないビジネス書や自己啓発書が多いことだ。こんなことを書くと、さしずめ私は「ワーキング・ウーマンの敵」と見なされてしまうことだろうが、何だか、数多の手帳術の本やビジネス本を書店で眺めるにつけ、「子持ちの女性も何か仕事をしていないと社会につながっていない」と煽る風潮ができつつあるようで、「隙間時間の活用」という名の「時間枯渇術」に振り回されてしまう時間難民が増えているのではないか、と感じてしまうのはどうしようもない。

もっと、いろいろな価値観が、いろいろな提示のされ方をしても良いのではないだろうか。ちなみに、私の来年の手帳は、ガチガチと予定を書き込むのではなく、アイディアなどをメモできる欄の多いゆったりタイプを選ぶつもりだcatface(2009/10/12)

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「専門」を持つということ

今さら何か、という気がしないでもないが、どうも最近は専門分野を持つことよりも、広く浅くこなす器用さのほうがもてはやされている風潮があるので、改めてちょっと考えてみたいと思った次第。

とある知り合いの話で、深く心に残っているエピソードがある。歯学部を出ているその人が学生だった頃、ある教授が講義のはじめにこう言ったそうだ。

「もし道端に歯が一本転がっていたとして、その歯が一体何の歯で(当然人間のものとは限らない)、どこに生えていた歯なのかがたちどころに判らなければ、歯学部で勉強する意味はない。」

私たちいわゆる「アラフォー」世代は、まだぎりぎり旧制時代の「正しい」学問を修めた学者達に直接教えを受けられた世代で、この言葉は単に歯学部という分野を超えて、端的に「学問とは」「専門とは」ということを言い表していると思う。私自身は、一番尊敬するドイツ文学の教授に「今は広く浅くの実学主義が良しとされているけれど、本来文学というのは狭く、そのかわり限りなく深く深く降りて行くことができる。片手間にやるものではなく、生命がけでやらなければならないほどの世界だ」と言われたことが印象に残っている。

いまでは、「生命がけ」などという言葉は死語に等しいのではないだろうか。そこまでして何かに打ち込むことをしない人が増えている気がする。そんな彼らは一様に「いまの社会に希望が持てないから」という大仰かつ無責任なことを言いたがるが、単に彼らは(社会ではなく)「自分」と向き合わず、自分というものを知らないために、何をしたいのかが分からないだけだと思われる。

私は多趣味と思われるのか、よく「やりたいことが沢山あって羨ましい」というようなことを言われる。でも、そういう人は続いて「私は自分が何をやりたいのか分からない」と言うことが多い。しかし、私から言わせてもらえば、「自分」としっかり向き合えば、「自分が何をしたいのか分からない」などという甘えた言はあり得ないし、自分というものが多少なりとも見えてくれば、「やりたいこと」「向いていること」はいくらも思いつくはずだ。そこから自分の能力と限界を各段階毎に見極め、「専門」を磨いていけば良い。

ここで人生ままならないのが、「やりたいこと」と「向いていること」は必ずしも一致しないということだ。自分が生命をかけてでもやりたいことに才能を持っていれば、それはとても幸せなことだが、それが一致している人はごく一握りの、天与の才を持つ「選ばれた人」。残りは、努力という名のもとに、自分の能力と方向性の妥協点を見出して生業としていることがほとんどだ。しかしながら、それは決して不幸なことではない。「やりたいこと」は趣味にすれば問題ないことが多いし、それで大抵はバランスが取れるものだ。つまり、「専門を持つ」ということは「自分を持つ」ということに限りなく等しい。アイデンティティの問題なのである。

自分の能力と限界を厳しく(時には甘やかしだって必要だbleah)見極め、立ち位置を確認しながら「専門」を持てれば、ありがちな「勘違い」や、コンプレックスから来るとしか思えない理不尽なバッシングもすることはなくなるだろう。

現代は、生命に直接かかわりのない文化や芸術はとかくないがしろにされ、クローズアップされるのは経済的効果やタイムマネジメントばかりだ。現在飛ぶ鳥をも落とす勢いの某経済アナリスト氏も最近初めてオペラを鑑賞したそうだが、時間も能力も全てを「数値」に換算することが仕事になっている彼女の眼に、いまの日本のオペラ受容はどう映り、そして「時の芸術」の代表である音楽(オペラ)はどう響いたことだろうか(正直、あまり聞きたいとは思わないが・・・苦笑)。

何でも「数値」に置き換え可能であり、それで「節約」した「余剰時間」で皆がもっと幸せになれるはずだ、という“幻想”は、一時期文学界を席巻した「記号論」を思い起こさせる。何でも「記号」に置き換えることでテクストの無限な読みが可能と思われていたわけだが、その「記号論」幻想も「単に恣意的な読みに堕す恐れのほうが強い」として文学界ではとっくに主流を譲り、もはや古典にすらなっているのだが、常に先進的・理論的であることが信奉されているはずの経済界においては、まだ夢幻の最中なのだろうか。あるいは、実は文学のほうがいつの時代にも通用する真理を含んでいることの証しなのかもしれない。常に単一的な視点しか持てなくなったマスメディアにも罪はあるが、それにいとも簡単に踊らされてしまう昨今、全体主義的な傾向をどうしても感じてしまうのは私だけだろうか。それも「自分」という軸足を持てれば、かなり改善されると思うのだが。(2009/09/21)

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ミラノ・スカラ座『アイーダ』

Photo 朝晩涼しくなり芸術の秋を感じさせる今日このごろ、ミラノ・スカラ座の『アイーダ』(ヴェルディ作曲)を聴いた(9月6日・NHKホール)。少々体調を崩し、ここ半年ほどろくに演奏会場に足を運べずにいたのだが、久し振りのリハビリにはぴったりで、「何か論文ネタを・・・」という下心を持つ必要もなく(苦笑)、グランド・オペラのゴージャスさを心ゆくまで楽しむことができた。

何よりもまず、バレンボイムの指揮が好きだ。これまでもベルリン国立歌劇場の『リング』や『モーゼとアロン』で感服していたのだが、今回の『アイーダ』でも自分の好みとの相性の良さを再確認した。オーケストラと合唱の響きが豊かで、それがしっかりと舞台を支えていたため、ソリストの多少の事故も気にならないほどだった。それもこれも、やはりバレンボイムの統率力に負うところが大きいのだろう。

この作品で恐らく最も有名な第二幕の凱旋式典。名曲といわれる曲にはそれだけの理由があって、楽曲そのものが大変に良く出来ている場合がほとんどであり、またそれだけに演奏者の実力も出てしまうものだと認識しているが、今回の上演ではこの場面の出来が素晴らしかった。バレンボイムはこの場全体の流れをしっかり捉えていて、はじめから感情過多に飛ばすのではなく、厚みを持たせながらも控えめとも思える響きで合唱が始まり、件の行進曲でも、オーケストラの低音を響かせたどっしりとした構え。それが劇の進行と共にどんどん盛り上がっていく様は見事としか言いようがなかった。

アムネリス、アイーダ、ラダメスの主役三人は、それぞれに声は美しかったのだが、全体にもう少し押し出しが強ければ、もっともっと素晴らしい上演になっただろう。個人的には、アイーダの父アモナスロを歌ったホアン・ポンスが聴く側に直に届く歌唱だったと思う。(2009/09/07)

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モリエール、再び、のその後

Photo 前回の記事のその後、である。あまり差が判らないかも知れないが、これでも結構がんばったのだ・・・sweat01 

よく先生に指摘されるのだが、細部に捕らわれるあまり近視眼的になり、どんどん全体が黒くなっていってしまう傾向にある。石膏像のはずが、ブロンズ像のようになっていまう、ということだ。髪も、前よりもかつらのようになってしまったかも知れない。

奥行きも・・・あまり感じられない・・・か(汗)。

光と影と線。終わりのない探求であるsad (2009/08/24)

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モリエール、再び

Photo モリエールである。ここのところ何だかんだで行けずにいたデッサン教室で久し振りに。前回とはほぼ反対側から挑戦。

それにしても、西洋人にはよくあることだが角度が変ると全く別人のようだ。それでも、某解剖学の専門家から「前回のよりも、今回のほうが良く描けている」とお褒めの言葉を頂戴したので、アップした次第。顔の骨格がちゃんと人間のバランスになっているらしい(笑)。ちなみに、先生にも「顔はかなり正確に描けていますね」というお言葉を頂戴したのでご機嫌であるhappy02

ちなみに、前回のはこちら(downwardright)。Photo_3 本人としては、今回のほうが苦労しているのだが、頭部と胴体とのバランスも今回のほうが上手く行っているらしい。なかなか集中力が持続せずに苦労している分、慎重になっているのかも知れない。何事もそうだが、「調子いいぞ!」と思っているときほど、ポカをやっていたりするものだ。些細なことにも発見あり。(2009/08/11)

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『私の血はインクでできているのよ』

Photo 久世番子著(講談社)のこの漫画は、久し振りにツボにハマってしまった。前作の『番線』(新書館)もかなり親近感を抱いたものだが、今回は「うんうん、あったあった」「みんな(?)そうだったのね~」とひとりごちながら一気読み(笑)。

何を隠そう、私も小学生の頃は「お絵かき少女」で、「なりたい職業」はズバリ「マンガ家」だった。それがどこで間違えたのか、今では絵ではなく言葉と音楽を相手に玉砕する日々・・・

しかし、手指の皮膚疾患でヴィオラを弾けない年月、ならばと思いデッサンを習い始めたせいか、また「お絵描き」魂が少し戻ってきている。きてはいるが・・・・やはり、元が本格デッサンではなくマンガお絵かき出身のせいか、今さらせっせとデッサンを描いても「芸術」に昇華させることなど、到底無理っぽいことも再確認している。

かと言って、それならばマンガ家にならなれそうなのか、と言えば「とんでもない!」。言うまでもなく、マンガは絵を描けさえすれば良いわけではない。ストーリーを創り、コマ割りをして話を進めなければならない。そんなこと、とてもではないが私にはできない。

と、ここまで考えて思い当たったのだが、実はマンガは、表現形態としてはオペラに似ているところがあるのではないか? どこまでをセリフ(言葉)で表現し、どこまでを絵(音楽)に任せるのか? コマ割りなど、まるで演出ではないか(少々牽強付会か)。

絵を描くのは好きだけれど、美術にもなれず、漫画にもなれず。そんなどっちつかずの我が身は、高校の美術部で部長をしていながら美大ではなくマンガ家への道を突き進んだこの「番子さん」キャラクターに非常にシンパシーを感じてしまう。いや、番子さんは立派に漫画家として立っていらっしゃるのだから、どちらにもなれない自分と一緒にしてしまうのは失礼極まりないのだが・・・

それにしても、「おひめさまを描く練習」「バレリーナを描く練習」「金髪にバラを描く練習」(いずれも本書より)・・・・ええ、毎日励んでいましたとも。あの日々を思い久々に手帳の片隅にボールペンで「オスカル様」と「アントワネット様」を描いてしまった。受験期でも大学ノートは落書きだらけ、、というあたりも、身に覚えがありすぎて・・・・・typhoon  

番子さん、願わくは『太宰治の「富嶽百景」のまんが』(本書77ページ)を世に送り出してください!fuji (2009/03/23)

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