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「あたり前」のこと

昨日の文章の続き、というか補足のようなもの。

文学でも音楽でも、まずは大元の作品(文章だったり楽譜だったり)を読み込むことから始める、と書いた。「そんなことは当たり前」という反応が身内からあったし、またそう考える方も少なくないだろう。あのように書いたのは、まず私自身が恥ずかしながら、そこに至るのに少々時間がかかった、ということが大きかった。学生の頃は、卒論でも、学生オケやヴィオラの個人レッスンでも、まず「誰か」が書いたもの・演奏したものを読みまくり、聴きまくって、挙句の果てにそれらに振り回されては、「結局あなたは、どう感じているのか」と根本的な問題を突きつけられたものだった。

もはや古典になりつつあるものもあるが、各種の現代文学理論では、「虚心坦懐にテクストを読むだけでは、文学解釈は成り立たない」という主張が声高になされている。しかし、本当にそうなのだろうか? 確かに、文学でも音楽でも作品はあくまで芸術として昇華されたものであるから、そこに作者そのものの姿を見るのは誤りだろう。だが、テクストを読み解くための共通した鍵(ナントカ理論)などあるわけもなく(そんなに芸術は底の浅いものではない)、「初めに解釈のテクニックありき」の姿勢は、不当に作品の本質を歪曲する危険性が非常に高い。ましてや「『○○理論』のための●●理論」といったように屋上屋を架しているとしか思えない「発展」を繰り返している現代文学理論とは、一体何なのであろうか。

そう思うからこそ、「まずは作品と向き合うべし」という考えを持っているのだが、最近は意外にも、この「当たり前」のことがいい加減にされている感じがしてならない。最近もてはやされている本に多いのだが、あたかも快刀乱麻を断つかのような文章でも、「どれもこれも、どこかで読んだことあるぞ」「だから、何?」という内容であることも少なくない。資料の扱いかたそのものに疑問を感じることも多い。浅い傷のほうが一見出血量が多いように、スパっと切れるような文章ほど、案外底が浅いものなのかも知れない。「切れ味鋭い文章」に煽動されないように留意したいものである。(08/04/28)

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