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「ステージ・パパ」レオポルトの真実

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父、レオポルト・モーツァルトは、息子のヴォルフガングを「神童」として売り出した、ステージ・パパの走りだとよく言われる。確かに、結果だけを見る限りではそう見えるかも知れないし、そのような評価を受けても仕方のないようなところはある。だが、本当に現実のレオポルトの行動とは、“初めに目的ありき、目的のためなら手段を選ばず”かのような、商魂たくましいものだったのであろうか。ステージ・パパとの見方は、あくまで結果論に過ぎないのだとしたら、との推理も可能なのではなかろうか。

 他の誰でもないわが子に、尋常ではない才能を見出したとき、その親がとる行動はどのようなものかを想像してみればよい。人によって、またその子どもの性格によって異なるだろうが、レオポルトの場合には、なにをおいても“この子の才能を出来る限り伸ばす”ことに決めた。そうして、既成の枠に収まりきらないほどのヴォルフガングの育成を我が身に背負ったとき、世間に準じた教育の類は全く無効であり、また親である自分も教育者として殆ど無力であることに絶望したのではなかろうか。秀才という名のただの凡人たちが整えた『学問』など、天才のヴォルフガングにとってはともすれば有害無益、彼にとって最も大切なのは、この世界における森羅万象であり、学問という枠とは無縁に流れていく人々の営みである。それら諸々の物事からヴォルフガングが己の才能に適った方法で自らのうちに取り込み、血肉としていくことこそ必要な教育だと、親の直感で悟ったのではないか。そのためには、ひとところに留まるよりも、できるだけ様々な土地での現象を見せ、経験を積ませたほうが良い。レオポルトが、妻と自慢の娘を故郷に置いてまで、ヴォルフガングと二人、当時の危険を伴った旅に出たことの本当の理由は、そんなところなのではなかろうか。

 レオポルトは一種のビジネスとして息子を売り出した、という説を最近目にしたが、実際にそう人々の目に映ったとしても、それは一種必要悪であったとも捉えられる。上記の理由から、レオポルトは、息子の見識を出来る限り広めるためにこそ旅を考えていた。馬車の旅には金がかかる。しかし潤沢な資金があるわけでもなく、息子の音楽を披露することで収入を得られるのなら、さらに旅を続けることもできよう。「息子を商品にしている」という罪悪感(もしあったとしての話だが)と、「息子の才能を伸ばす」という決心とを天秤にかけた場合、どちらを取るか。これもまた人それぞれだろうが、レオポルトは後者を選んだ、というだけの話なのではないだろうか。清貧に甘んじているばかりでは、どこからも救いの手は差し伸べられなかったのだろう。今に語り継がれている数々の逸話は、あくまで旅の結果として後日付いてきたものに過ぎず、レオポルトが初めから仕組んだことでもあるまい。もちろん、身分不相応な賛美を息子が受けるのを見て、親としては単純に嬉しかったことだろうし、また誇らしくもあっただろう。時には調子に乗って、はめを外してしまうようなこともあったかも知れない。だがそれも、言ってみれば所詮「親バカ」というだけである。そのことは、決してそしられる類のことではなかろう。ただ、それに経済的利益という側面が付いてまわることで、当時から妬みの入った目で見られてしまったのかも知れない。けれども当人にとってみれば、周囲の雑音に過ぎないだろう。下世話な例えをすれば、もてはやしたと思えばこきおろす、現代の一部の無責任なマスコミ報道と一緒のこと。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという存在は、やはり「時代が生んだ子」であるよりも、はるかに「神の子」であったのだ。その父レオポルトは、「世間」という、天才にとっての夾雑物を極力排していたに過ぎない。確かに、それは父権という過剰な愛情表現であったかも知れない。息子の天賦の才を、一点の濁りなく守り抜くために、世間だの常識だのなどというあらゆる規範を無視した子育ては、やはり一般に照らせば特異である。しかし、それゆえに、時を経てもなお色あせることのない、数々のヴォルフガングの作品が残されたのだ。レオポルトがいなかったら、それは不可能だったことは確かに思える。天才として祭り上げる過去の偶像崇拝のアンチテーゼとして、モーツァルトにもこんなに人間味に溢れた部分があったのだ、ということを見つけようとするあまりに、我々凡人と同次元に引き摺り下ろそうというルサンチマンは、やはり少々見苦しいし、第一、不遜なことであろう。それよりはむしろ、軽く明るい雰囲気の癒しの音楽としての、昨今流行の受容のほうがよほど健全で、またモーツァルトの音楽には、それを許容して余りある懐の深さがある。それを踏まえずに、眉間に皺を寄せ「モーツァルトの音楽は、そんな軽いものではない!」と声高に言うことは、野暮の極みだ。所詮、下から上を見上げるのには自ずと限界があるのである。自戒を込めて、このことは物書きの嗜みの基本なのだが。

 人間の姿を書こうとするなら、歴史文献だけを並べてみたところで、むしろ見えないことのほうが多いものだ。結果のみにあらわれた「史実/事実」と、「実情」とが異なることは決して珍しいことではない。そして、往々にして「実情」というものは、起こったことを客観的に残すタイプの歴史的な資料には反映されにくい、というジレンマを抱えている。見落とし易いことだが、人間の営みにとって普遍的で「当然」と思われるような実情や真実ほど、シンプルであることも多く、それだけに一層、敢えて資料や文献には残りにくいものなのである。つまり、“豊富な”歴史資料のみで断定することは、マニュアルに過度に頼るのが愚かであるのと同じような、思考過程の危険性を孕むことなのだ。

 ではそのような歴史に対峙し、実情から昇華した「真実」が唯一残り得る場とは何か。それこそが、文学や芸術なのである。連綿と生み出されてきた諸作品が、廃れることなく受け継がれてきたことの真の理由も、そこにある。本当の「わかりやすさ」とは、事実のみに裏付けられた「簡明な」説明なのでもないし、ましてや中身のない薄っぺらな軽さでもない。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの音楽が持つ、「軽妙な優美さ」が、決してそのような軽佻浮薄と同じではない、という言説が真に行き着くべき先は、モーツァルトの作品はそのような場としての芸術作品としてあり続けるからだ、という点に尽きる。史実に必要以上に絡め取られることなく思索をすることで、初めて見えてくる道がある。そのような道を、時代を超えて示すことができるがゆえに、文学や芸術作品は不滅なのである。無論、それらの諸作品に挑むことが、多くの場合がドン・キホーテの愚を犯していることも、また連綿と繰り返されている事実なのではあるが・・・・。(2008/04/13)

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