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2008年8月

『利口な女狐の物語』

松本は空気と水が清涼で、初めて行ったときからとても気に入っている。サイトウキネンのオペラは3年ぶり。今年はヤナーチェクの『利口な女狐の物語』を聴いた(8月26日・まつもと市民芸術館)。

まず素直な感想は、「聴きに来て良かった」。芸達者な歌手たちと、おもわず嬉しくなりクスクスと笑ってしまうような動物たちの衣装(事実、会場内には笑いのさざなみが起こっていた)。虫たちのダンスはもちろん、その動物たちの仕草の振り付け(?あの仕草も振り付けの範疇なのだろうか? それとも演出?)が絶妙で、動物の世界が人間の戯画化だということも無理なく納得させてくれる。

この物語では、森番の妻とふくろう、校長と蚊、神父とあなくまが、それぞれ歌手の一人二役になっているが、蚊とあなくまが、校長と神父の姿で人間として登場しているときにも、テリンカと間違われる女狐は女狐の姿のままこの二人と接点を持つ。別に酔っぱらった校長の幻覚だから、と言ってしまえばそれまでなのだが、このシーンは謎めいていて、何事かを考えさせる(不勉強でしかとは解らないのだが)。このある種幻想的な出来事が起こる場にひまわりがある、というのも何か意味があるのだろうか。

今回の演出を手がけたロラン・ペリー自身のノートに「我々はもっとも具体的なレアリズムからもっとも夢に満ちたイメージの世界へと移ることになるだろう。(・・・)この信じられない大きな隔たりを可能にするのが、ヤナーチェクの素晴らしい音楽なのだ(公演プログラム49ページ)」とあることからも、やはり夢と現実との間(あわい)にひまわりがあるのかな、などと考えてしまう。

個人的に大変おもしろかったのは、第一幕第二場の、女狐が雌鶏に向かってフェミニズムばりの演説をする場面。鶏の衣装と動きが、女狐の主張とかみ合わない鶏たちのすれ違いぶりを風刺していることを見事に表現していた。

私は動物が好きなので、第三幕第一場で女狐が撃たれてしまうところなどでは「あぁ」と思ってしまうのだが、ラストでカエルが森番に、「それは僕のおじいちゃんの話だよ」と言うところで救われる気がする。この作品全体として、弱肉強食の世界をきれい事にすることなく描いているにも拘らず、不快感を感じさせないし、お涙頂戴的な要素も少ない。淡々と描かれているようで、読後感というか聴いた後の気持ちに、輪廻転生の理が静かに降りてくる、そんな作品だ。それはやはり、ロラン・ペリーも言っているように、ヤナーチェクの音楽のなせる技なのだろう。

舞台上でこれだけの素晴らしい世界が織りなされていただけに、音楽の音量過多が残念だった。客席に届く響きがもう少し洗練されれば、ヤナーチェクの音楽の繊細さが表現され、申し分ない上演となったことだろう。(2008/08/28)

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「先人を身近に感じる」とは言っても・・・

本日の朝日新聞読書ページの、とある欄を読んで思ったこと。

まぁ、感じ方は人それぞれではあるのだが・・・それまで遠い人だと思っていた人物の著したものを読んで、ある時「(以前よりは)解った気がする」という気持ちになり、その著者を「身近に感じる」ことがいくらあったとしても、私は別に「血縁のおじさんかおじいさんが大事な話を自分一人にしてくれている」気にはならない。そこまで自分に引き寄せて考えるほど、不遜にはなれないというべきか。理解が深まったことで、手が届かないと思っていた大家に対して、少しは自分も近づけたかな、という親近感を持つのと、それを血縁とまで思うこととは、ちょっと(かなり)ズレている。

確かに「大家にひれふ」す必要もないとは思うが、やはり「跪く」という謙虚な気持ちは忘れないほうが良いのではないだろうか。下手に「血縁」とまで、いわば無条件なつながりにまで引き寄せてしまうと、なれ合い的な油断から、観るべきものも看過してしまう恐れが非常に大きい。もちろん、長きにわたって専門とし、密度の高い付き合いをした上で、そのような心境に至るのなら、それは至福だろうと思う。しかし、数ある球の中のひとつ、という程度では、そのような境地に至るのは並大抵の才能ではできないだろう。

別に文学の敷居を徒に高くしようとしているわけではない。大家の言葉をもっと身近に感じて、自分が生きていく上での糧としたほうが良いと思うし、思っている以上に日常の姿勢に応用可能な親近性があるものだ。だが、それをして凡人の域にまで引きずり下ろすような態度もいかがなものかと思うわけだ(それこそ“ルサンチマン”の最たるものだ)。大家も人の子であることは確かだが、やはり大家には「大家」たる所以がある。それは凡人にはないような才能かもしれないし、努力のあり方かもしれない。いずれにせよ、学ぶべきことは多く、必要以上に遠く感じる必要もないが、やはりとるべき適正な「距離」というものはあるのだと思う(第一、大家との距離がないと、食らいついていく楽しみがないではないか!)。私の場合は、その適正距離が「謙虚さ」というものなのだ。

それといまひとつ、重要なこと。ゲーテでもニーチェでも、「血縁」とまで言うからには、原文で読み味わい、その文章の神髄を感じ取っていることが大前提であり絶対条件だ。翻訳は、(それが良いとか悪いとかいう“翻訳論”はここでは問題としない)どうしても“原文の持ち味を余すところなく置き換える”ことには限界があるため、内容の理解や導入には役だっても、とても「血縁」とまで言えるような深さに到達できるとは思えない。そのあたり、この欄の筆者はどうお考えなのだろうか。(2008/08/17)

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