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「先人を身近に感じる」とは言っても・・・

本日の朝日新聞読書ページの、とある欄を読んで思ったこと。

まぁ、感じ方は人それぞれではあるのだが・・・それまで遠い人だと思っていた人物の著したものを読んで、ある時「(以前よりは)解った気がする」という気持ちになり、その著者を「身近に感じる」ことがいくらあったとしても、私は別に「血縁のおじさんかおじいさんが大事な話を自分一人にしてくれている」気にはならない。そこまで自分に引き寄せて考えるほど、不遜にはなれないというべきか。理解が深まったことで、手が届かないと思っていた大家に対して、少しは自分も近づけたかな、という親近感を持つのと、それを血縁とまで思うこととは、ちょっと(かなり)ズレている。

確かに「大家にひれふ」す必要もないとは思うが、やはり「跪く」という謙虚な気持ちは忘れないほうが良いのではないだろうか。下手に「血縁」とまで、いわば無条件なつながりにまで引き寄せてしまうと、なれ合い的な油断から、観るべきものも看過してしまう恐れが非常に大きい。もちろん、長きにわたって専門とし、密度の高い付き合いをした上で、そのような心境に至るのなら、それは至福だろうと思う。しかし、数ある球の中のひとつ、という程度では、そのような境地に至るのは並大抵の才能ではできないだろう。

別に文学の敷居を徒に高くしようとしているわけではない。大家の言葉をもっと身近に感じて、自分が生きていく上での糧としたほうが良いと思うし、思っている以上に日常の姿勢に応用可能な親近性があるものだ。だが、それをして凡人の域にまで引きずり下ろすような態度もいかがなものかと思うわけだ(それこそ“ルサンチマン”の最たるものだ)。大家も人の子であることは確かだが、やはり大家には「大家」たる所以がある。それは凡人にはないような才能かもしれないし、努力のあり方かもしれない。いずれにせよ、学ぶべきことは多く、必要以上に遠く感じる必要もないが、やはりとるべき適正な「距離」というものはあるのだと思う(第一、大家との距離がないと、食らいついていく楽しみがないではないか!)。私の場合は、その適正距離が「謙虚さ」というものなのだ。

それといまひとつ、重要なこと。ゲーテでもニーチェでも、「血縁」とまで言うからには、原文で読み味わい、その文章の神髄を感じ取っていることが大前提であり絶対条件だ。翻訳は、(それが良いとか悪いとかいう“翻訳論”はここでは問題としない)どうしても“原文の持ち味を余すところなく置き換える”ことには限界があるため、内容の理解や導入には役だっても、とても「血縁」とまで言えるような深さに到達できるとは思えない。そのあたり、この欄の筆者はどうお考えなのだろうか。(2008/08/17)

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文学雑感」カテゴリの記事

コメント

その人はそこでみたコトバに自分の息をかけて
依存したかったのかもね
全て許される・・・・・
全て受け入れられる・・・・・みたいな。

時代を超えて支持される大家さんの言葉なら
広く人々の心に共感されるものでしょうから。
共感と依存の壁って案外脆いのよ。

投稿: parko | 2008年8月20日 (水) 23時32分

parko さん,どもども.

本当に,簡潔にして言い得て妙,なコメント多謝です.

実は,この人の「座右シリーズ」とやらのゲーテ本は,出たときにすぐ買って読んだのですよ.話のとっかかりと,本の途中まではそう悪くなかったんですけど,そこから先はちょっと,かなり,だいぶ・・・ね(以下自粛)thunder

で,昨日,本屋で同シリーズのニーチェ本を立ち読みしてみたのですが,この人の根本的に間違っているところは,どうも「その道の研究者」は,研究対象に愛情を持っていない,だから血の通わない冷たい文章を書くのだ,と思いこんでいるところ.「だから,難しいことは措いておいてボクと一緒に楽しく読もうよ」,みたいなのが売り文句でした.

研究対象に愛情を持っていない研究者なんて,それこそ似非ですよ~.それが判らないということは,この人自身が疑われてしまいますよね.

あと,翻訳って,実はとても難しい問題を孕んでいて,単にドイツ語ならドイツ語の原語を日本語に文法的に正確に置き換えればいい,というだけではありません.ゲーテならゲーテの,ニーチェならニーチェの,深い理解と広汎な知識がないと訳出できない部分が実はほとんど.だから,この「座右シリーズ」の著者氏も(多分,文面からして翻訳本しか読んでないと思われます),実はそういう「愛情あふれる研究者」の恩恵にあずかっているわけですよ.それなのに「愛情が足りないのはナンセンス」とでも言わんばかりの論調は,訳者や大家に対して失礼だし,あまりにも不遜なのではないかと思ったわけです.

ニーチェにおけるルサンチマンの理解も全然間違ってるし(それなのに,ああいう本がもてはやされると,間違いが蔓延することになる・・・これは罪ではないのだろうか???).

投稿: ウルズラ | 2008年8月21日 (木) 16時52分

むぷぷ。
以下自粛。。。。。の以下は
なかなかお熱いですよ(笑)

少し筋がちがったらごめんよ。
小さい子どもへの読み聞かせのコツは
「抑揚をつけず、感情を込めず」。
聞き手の子どもが自由にコトバを感じ取り
自由にお話の中で旅を楽しめるように配慮する。
ここがポイントなんだとか。

投稿: parko | 2008年8月21日 (木) 20時29分

>>「抑揚をつけず、感情を込めず」

へえぇ,それは知らなかった.逆かと思ってました.
つい先日も,ニュース番組の中の1コーナーで,読み聞かせの講習会を取材していたのだけれど,その時も「聞き手のほうを見て,抑揚をつけると断然良くなりますね」といったようなことが言われたいたけどね~

でも,本当に長く読み継がれているものって,いつの世にも通じる「真実」が含まれているものだから,それを子どもが自由に感じ取れるように・・・っていうほうが,本当に子どもの持っているものが伸びるだろうね.

なかなか深遠だわ・・・mist

投稿: ウルズラ | 2008年8月22日 (金) 13時54分

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