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2009年9月

「専門」を持つということ

今さら何か、という気がしないでもないが、どうも最近は専門分野を持つことよりも、広く浅くこなす器用さのほうがもてはやされている風潮があるので、改めてちょっと考えてみたいと思った次第。

とある知り合いの話で、深く心に残っているエピソードがある。歯学部を出ているその人が学生だった頃、ある教授が講義のはじめにこう言ったそうだ。

「もし道端に歯が一本転がっていたとして、その歯が一体何の歯で(当然人間のものとは限らない)、どこに生えていた歯なのかがたちどころに判らなければ、歯学部で勉強する意味はない。」

私たちいわゆる「アラフォー」世代は、まだぎりぎり旧制時代の「正しい」学問を修めた学者達に直接教えを受けられた世代で、この言葉は単に歯学部という分野を超えて、端的に「学問とは」「専門とは」ということを言い表していると思う。私自身は、一番尊敬するドイツ文学の教授に「今は広く浅くの実学主義が良しとされているけれど、本来文学というのは狭く、そのかわり限りなく深く深く降りて行くことができる。片手間にやるものではなく、生命がけでやらなければならないほどの世界だ」と言われたことが印象に残っている。

いまでは、「生命がけ」などという言葉は死語に等しいのではないだろうか。そこまでして何かに打ち込むことをしない人が増えている気がする。そんな彼らは一様に「いまの社会に希望が持てないから」という大仰かつ無責任なことを言いたがるが、単に彼らは(社会ではなく)「自分」と向き合わず、自分というものを知らないために、何をしたいのかが分からないだけだと思われる。

私は多趣味と思われるのか、よく「やりたいことが沢山あって羨ましい」というようなことを言われる。でも、そういう人は続いて「私は自分が何をやりたいのか分からない」と言うことが多い。しかし、私から言わせてもらえば、「自分」としっかり向き合えば、「自分が何をしたいのか分からない」などという甘えた言はあり得ないし、自分というものが多少なりとも見えてくれば、「やりたいこと」「向いていること」はいくらも思いつくはずだ。そこから自分の能力と限界を各段階毎に見極め、「専門」を磨いていけば良い。

ここで人生ままならないのが、「やりたいこと」と「向いていること」は必ずしも一致しないということだ。自分が生命をかけてでもやりたいことに才能を持っていれば、それはとても幸せなことだが、それが一致している人はごく一握りの、天与の才を持つ「選ばれた人」。残りは、努力という名のもとに、自分の能力と方向性の妥協点を見出して生業としていることがほとんどだ。しかしながら、それは決して不幸なことではない。「やりたいこと」は趣味にすれば問題ないことが多いし、それで大抵はバランスが取れるものだ。つまり、「専門を持つ」ということは「自分を持つ」ということに限りなく等しい。アイデンティティの問題なのである。

自分の能力と限界を厳しく(時には甘やかしだって必要だbleah)見極め、立ち位置を確認しながら「専門」を持てれば、ありがちな「勘違い」や、コンプレックスから来るとしか思えない理不尽なバッシングもすることはなくなるだろう。

現代は、生命に直接かかわりのない文化や芸術はとかくないがしろにされ、クローズアップされるのは経済的効果やタイムマネジメントばかりだ。現在飛ぶ鳥をも落とす勢いの某経済アナリスト氏も最近初めてオペラを鑑賞したそうだが、時間も能力も全てを「数値」に換算することが仕事になっている彼女の眼に、いまの日本のオペラ受容はどう映り、そして「時の芸術」の代表である音楽(オペラ)はどう響いたことだろうか(正直、あまり聞きたいとは思わないが・・・苦笑)。

何でも「数値」に置き換え可能であり、それで「節約」した「余剰時間」で皆がもっと幸せになれるはずだ、という“幻想”は、一時期文学界を席巻した「記号論」を思い起こさせる。何でも「記号」に置き換えることでテクストの無限な読みが可能と思われていたわけだが、その「記号論」幻想も「単に恣意的な読みに堕す恐れのほうが強い」として文学界ではとっくに主流を譲り、もはや古典にすらなっているのだが、常に先進的・理論的であることが信奉されているはずの経済界においては、まだ夢幻の最中なのだろうか。あるいは、実は文学のほうがいつの時代にも通用する真理を含んでいることの証しなのかもしれない。常に単一的な視点しか持てなくなったマスメディアにも罪はあるが、それにいとも簡単に踊らされてしまう昨今、全体主義的な傾向をどうしても感じてしまうのは私だけだろうか。それも「自分」という軸足を持てれば、かなり改善されると思うのだが。(2009/09/21)

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ミラノ・スカラ座『アイーダ』

Photo 朝晩涼しくなり芸術の秋を感じさせる今日このごろ、ミラノ・スカラ座の『アイーダ』(ヴェルディ作曲)を聴いた(9月6日・NHKホール)。少々体調を崩し、ここ半年ほどろくに演奏会場に足を運べずにいたのだが、久し振りのリハビリにはぴったりで、「何か論文ネタを・・・」という下心を持つ必要もなく(苦笑)、グランド・オペラのゴージャスさを心ゆくまで楽しむことができた。

何よりもまず、バレンボイムの指揮が好きだ。これまでもベルリン国立歌劇場の『リング』や『モーゼとアロン』で感服していたのだが、今回の『アイーダ』でも自分の好みとの相性の良さを再確認した。オーケストラと合唱の響きが豊かで、それがしっかりと舞台を支えていたため、ソリストの多少の事故も気にならないほどだった。それもこれも、やはりバレンボイムの統率力に負うところが大きいのだろう。

この作品で恐らく最も有名な第二幕の凱旋式典。名曲といわれる曲にはそれだけの理由があって、楽曲そのものが大変に良く出来ている場合がほとんどであり、またそれだけに演奏者の実力も出てしまうものだと認識しているが、今回の上演ではこの場面の出来が素晴らしかった。バレンボイムはこの場全体の流れをしっかり捉えていて、はじめから感情過多に飛ばすのではなく、厚みを持たせながらも控えめとも思える響きで合唱が始まり、件の行進曲でも、オーケストラの低音を響かせたどっしりとした構え。それが劇の進行と共にどんどん盛り上がっていく様は見事としか言いようがなかった。

アムネリス、アイーダ、ラダメスの主役三人は、それぞれに声は美しかったのだが、全体にもう少し押し出しが強ければ、もっともっと素晴らしい上演になっただろう。個人的には、アイーダの父アモナスロを歌ったホアン・ポンスが聴く側に直に届く歌唱だったと思う。(2009/09/07)

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