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2009年10月

「文学の仕事」(加藤周一)

タイトルに掲げた題名の文章は、加藤周一氏の『私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ』(岩波現代文庫)に収録されている。

 「文学がなぜ必要かといえば、人生または社会の目的を定義するためです。文学は目的を決めるのに役立つというよりも、文学によって目的を決めるのです。」

という書き出しで始まるこの文章、少しあとに

 「どうしたら経済的にうまくいくか、みんなが豊かになるかというのは、科学技術から出てくるかもしれない。家が大きくなって庭が広くなる。しかし、ではそれから何をするかということはそこからは出てこない。もう少し長期的にある生き方を選ぼうとするならば、そのときに参考になり得るのは文学だと思います。」

という件がある。現在は未曾有の経済危機だと言われているが、そうではなくて豊かな時代であっても、「その先」を真剣に考えている人はそう多くはないのではないだろうか。少しでも時間が空けば何か予定を入れて、立ち止まることがない。立ち止まることは「停滞」とみなされ、前へ前へと進むことが正しいことだと推奨される。その余裕のなさを私は危惧する。

本文中ではさらにこの後、孔子の牛の話が例に出てくる。この話は、聖書の中の「放蕩息子」の逸話に似ており、目の前で苦しんでいる一頭の牛を助けることに意義があるか、ということが問題になっている。「たくさん〔の牛が〕苦しんでいるのだから一頭くらい助けてもしようがないという考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが前提にある」としながらも、その前提では「なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない」と指摘する。そして、やはり「出発点に返」って「目の前で苦しんでいる一頭の牛を助けることが先なのです」と言う。

周知の通り、加藤氏は東大医学部の出身である。医師である加藤氏のこの言葉には重みがある。事実、このすぐ後の段に「一人の人の命が大事でない人は、ただ抽象的に何百人の人の命のことをしゃべっても、それはただ言葉だけであって、本当の行動にはつながっていかない」と述べている。大病院で多くの受け持ち患者を抱え、「一分一秒も無駄にできず」一人一人の患者にいちいち対応するのには限界がある、そんなことをするよりも一人でも多くの患者を救うほうが先決だ、という大義名分のもとに、個々の患者の意思は事実上無視されているのが現状だ。ちょっとした口先だけで「患者さんのことを慮っています」というようなことを言われても、それこそ「本当の行動にはつながっていかない」ことを、私自身ごく最近痛感したばかりだ。

加藤氏は、「一頭の牛」「一人の人」の命が何故大切なのか、個はすなわち全体であるということ、それをわかるための目的が文学的目的なのだと言っているのだが、「文学は生命に直接関わらない」と一般に見なされているのにも似て、「一人の人の命」を救うことが原点のはずの医師達に「個はすなわち全体である」との意識が希薄なのには慨嘆の念を禁じえない。さらに言えば、単に生命さえ救えば良いのではなく、「なぜ牛が苦しんでいるのか」ということまで理解しようとしないと、それは治療とは言えないのだが。

加藤氏はこの後に、黙っていれば助かったものを、ナチスの将校の前で自分が俳優であることを証明して見せ銃殺されたポーランド人の例を挙げ、

 「自分の物理的な死よりももっと大事なもの、生命よりももっと大事なのは自分の俳優としての誇りです。」

と述べる。一般には、物理的な生命以上に大切なものはない、という価値観が共通認識としてある。しかし、個人には「絶対に譲れない一線」というものがある。それを直接生命に関わっている医師が、意外と一番解っていないようだ。恐らくは、時間に追われ余裕がなくなっていることも関係しているのだろう。しかし、いま言われている「医療不信」とは、そう大仰なことなのではなく、そういう医師「個人」の無理解が根にあるだけの話なのではないだろうか。時間に追われ立ち止まることのない医師には、加藤氏の言うように「出発点に返」ってほしいものだ。

 「放っておけば、(・・・)牛も息絶えるかもしれない。あるいは俳優としての自分のアイデンティティが壊されるかもしれない。そういうときに、最後に自分のほうに引き寄せるもの、そこに文学の力があると思うし、そのことを文学者が語らなければ誰も語らないと思うのです。」

つまり、「個」を「全体」にまで敷衍しうる力を持つもの、それが文学のもつ力であり、「全体」のために「個」を犠牲にするあらゆる組織・権力・無理解に対抗し、個人たる「私」が自己を見失わずにいるための術なのである。(2009/10/26)

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音楽的イン・テンポ

音楽的イン・テンポ、というのをご存知だろうか。「音楽」と「イン・テンポ」というと、メトロノームを思い浮かべるかも知れない。しかし、カチカチ・・と正確な幅でリズムを刻み続ける、あのメトロノームでは計れない「イン・テンポ」というものが楽曲中には沢山ある。アゴーギグや明らかな感情の表出としてのリタルダント、アッチェレランドなどとも違い、聴いている限りではあくまでイン・テンポで演奏されているように進行するのだが、もしそれをメトロノームなどの尺度で計ってしまうとイン・テンポではない、逆に、メトロノーム通りに正確に演奏してしまうと、音楽的にかえっていびつに聴こえてしまう、という状況が音楽では多発する。

つまり、「イン・テンポ」であっても、時間は伸び縮みしているということだ。このことは、何も楽曲作品の中だけの現象ではない。日常の営みの中でも全く同様のことが言える。というより、「時の芸術」たる音楽は人間の営みが反映され昇華された芸術形態なのだから、当然と言えば当然だ。

私がこのことを実感したのは、実は今年初めて「バーチカルタイプ」の手帳を使ってみたことがきっかけだった。小学生の頃から数字が苦手で、時計もデジタルではなくアナログタイプでないと、試験のときなど「あと○分」という時間が具体的にイメージできなかった私(笑)には、このバーチカルタイプの手帳は、「時間の幅を塊として見ることができる」という点で、理想的に思えた。

まあ確かに悪くはないと思う。特に予定が立て込んでいている時などは書き込みやすくはある。しかし、ここからは個人差だと思うが、その「立て込んだ予定」を見直しやすいか、というと、決してそうではなかった。何だかかえってごちゃごちゃしてしまい、大切な用事も隙間時間にちょちょいと済ませておけば構わない程度のついでの用事も、全部いっぺんに同じだけの密度で時間を費やすべく迫ってくるような圧迫感を与えるだけだったのだ。そうならないためには色分けをしようだとか、To Do リストを作ろうだとか、いや Not To Do リストをこそ作るべきだとか、いろいろなことが言われているが、色分けもしすぎると「ごちゃごちゃ」を増すだけだし、そんなリストをちまちま作る暇がないから忙しいんじゃないかい、と言いたくもなった(要は面倒くさがりなだけなのだがcoldsweats01)。

何故そうなってしまうのか。それは、一日が一時間なり30分なりで均等に区切られている紙面のせいだ。つまり、この「均等さ」が、メトロノームの均等さと同じなのだ。本当は豊かで生産的なはずだった「ある一時間」も、バタバタと雑用で過ぎてゆく「単なる慌しい一時間」と同等の幅にされ矮小化されてしまう落とし穴がここにはある。

この、メトロノームのように均等にコマ割りされた時間を、自分自身の「演奏」で彩り、強弱や長短をつけなければ意味がない。つまり、緻密なリストを作ったところでプライオリティが一目瞭然でなければ意味がないということだが、それでも、視覚的効果というのは馬鹿にならず、濃密な時間も空疎な時間も均等に並んでいると、強弱も長短も濃淡も認識しづらくなってしまうものだ。そしていつの間にか「今日も山のようなタスクをこなせた!」という事実にのみ達成感を感じるようになってしまう恐れもある。「・・・でも、その山の内容は?」「どんな木が生えてた?」「どんな動物がいた?」「鳥は鳴いてた?」・・・それが判らないくらいの忙しさであったなら、「こなせたはず」のタスクのクオリティも甚だ怪しくなってくる。手段が目的化してしまう典型例だ。「私はとにかく忙しくて過ぎたことは振り返らない主義だ」と豪語する人もいるが、振り返りをしない人というのを、どんな職種であれ私が信用できないのは、そういう理由だ。「やりっぱなし」は、山に独りよがりという名のゴミを捨ててくることと大差ない。

私は現在、文字通り「生命がけ」で文学研究を細々と続けているのだが、その中で思うのは、自分の大切な人にしわ寄せを受けさせてまで、今やっている「仕事」が本当に「自分にしかできない」価値があるのか、と立ち止まることの大切さだ。「この仕事をやるのは今しかない」と思うのはよくある状況だとは思うが、例えば子どもを持っているのなら、子どもの「今、この時」は絶対にもう二度とやって来ないことをどう考えるだろうか。子どもの生命の輝き、その時の年齢の持つ雰囲気、それは写真に撮って残すことはできても、共に生きた時間を過ごすことは二度とできない。それに比べ、仕事の「今」は、実はやり直しも代替要員もきくことが大半だ。子どもの「今」とひきかえてまで、その「仕事」を取ることを自分は本当に選ぶのか。

もちろん、その選択肢も事情も人それぞれだ。やり直しが事実上きかない仕事もあるし、これにかけては他の人では駄目だ、というくらい優秀な知人も実際に何人か思い浮かべることができる(ちなみに全員が母親だ)。働かなければ生活が成り立たない場合も否やはないし、それでもやはり自分は仕事を取ると言うのであれば、それは立派な選択であり、もはや他人がとやかく言う筋合いではないのも当然のことだ。だが、その場合でもあらゆる状況と可能性は常に変化をするのだから、立ち止まって自分の選択肢を見つめ直す必要は依然としてあるだろう。

それよりも私が一番気になっているのは、子どもを持つ女性の多く、特にこれから仕事をしようか迷っている人が、「自分のための(仕事の)時間」のほうが、「子どものために費やす時間」よりも多くならないと、「自己実現」ができておらず「ワークライフバランス」が取れていない、と感じるように仕向けているとしか思えないビジネス書や自己啓発書が多いことだ。こんなことを書くと、さしずめ私は「ワーキング・ウーマンの敵」と見なされてしまうことだろうが、何だか、数多の手帳術の本やビジネス本を書店で眺めるにつけ、「子持ちの女性も何か仕事をしていないと社会につながっていない」と煽る風潮ができつつあるようで、「隙間時間の活用」という名の「時間枯渇術」に振り回されてしまう時間難民が増えているのではないか、と感じてしまうのはどうしようもない。

もっと、いろいろな価値観が、いろいろな提示のされ方をしても良いのではないだろうか。ちなみに、私の来年の手帳は、ガチガチと予定を書き込むのではなく、アイディアなどをメモできる欄の多いゆったりタイプを選ぶつもりだcatface(2009/10/12)

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