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音楽的イン・テンポ

音楽的イン・テンポ、というのをご存知だろうか。「音楽」と「イン・テンポ」というと、メトロノームを思い浮かべるかも知れない。しかし、カチカチ・・と正確な幅でリズムを刻み続ける、あのメトロノームでは計れない「イン・テンポ」というものが楽曲中には沢山ある。アゴーギグや明らかな感情の表出としてのリタルダント、アッチェレランドなどとも違い、聴いている限りではあくまでイン・テンポで演奏されているように進行するのだが、もしそれをメトロノームなどの尺度で計ってしまうとイン・テンポではない、逆に、メトロノーム通りに正確に演奏してしまうと、音楽的にかえっていびつに聴こえてしまう、という状況が音楽では多発する。

つまり、「イン・テンポ」であっても、時間は伸び縮みしているということだ。このことは、何も楽曲作品の中だけの現象ではない。日常の営みの中でも全く同様のことが言える。というより、「時の芸術」たる音楽は人間の営みが反映され昇華された芸術形態なのだから、当然と言えば当然だ。

私がこのことを実感したのは、実は今年初めて「バーチカルタイプ」の手帳を使ってみたことがきっかけだった。小学生の頃から数字が苦手で、時計もデジタルではなくアナログタイプでないと、試験のときなど「あと○分」という時間が具体的にイメージできなかった私(笑)には、このバーチカルタイプの手帳は、「時間の幅を塊として見ることができる」という点で、理想的に思えた。

まあ確かに悪くはないと思う。特に予定が立て込んでいている時などは書き込みやすくはある。しかし、ここからは個人差だと思うが、その「立て込んだ予定」を見直しやすいか、というと、決してそうではなかった。何だかかえってごちゃごちゃしてしまい、大切な用事も隙間時間にちょちょいと済ませておけば構わない程度のついでの用事も、全部いっぺんに同じだけの密度で時間を費やすべく迫ってくるような圧迫感を与えるだけだったのだ。そうならないためには色分けをしようだとか、To Do リストを作ろうだとか、いや Not To Do リストをこそ作るべきだとか、いろいろなことが言われているが、色分けもしすぎると「ごちゃごちゃ」を増すだけだし、そんなリストをちまちま作る暇がないから忙しいんじゃないかい、と言いたくもなった(要は面倒くさがりなだけなのだがcoldsweats01)。

何故そうなってしまうのか。それは、一日が一時間なり30分なりで均等に区切られている紙面のせいだ。つまり、この「均等さ」が、メトロノームの均等さと同じなのだ。本当は豊かで生産的なはずだった「ある一時間」も、バタバタと雑用で過ぎてゆく「単なる慌しい一時間」と同等の幅にされ矮小化されてしまう落とし穴がここにはある。

この、メトロノームのように均等にコマ割りされた時間を、自分自身の「演奏」で彩り、強弱や長短をつけなければ意味がない。つまり、緻密なリストを作ったところでプライオリティが一目瞭然でなければ意味がないということだが、それでも、視覚的効果というのは馬鹿にならず、濃密な時間も空疎な時間も均等に並んでいると、強弱も長短も濃淡も認識しづらくなってしまうものだ。そしていつの間にか「今日も山のようなタスクをこなせた!」という事実にのみ達成感を感じるようになってしまう恐れもある。「・・・でも、その山の内容は?」「どんな木が生えてた?」「どんな動物がいた?」「鳥は鳴いてた?」・・・それが判らないくらいの忙しさであったなら、「こなせたはず」のタスクのクオリティも甚だ怪しくなってくる。手段が目的化してしまう典型例だ。「私はとにかく忙しくて過ぎたことは振り返らない主義だ」と豪語する人もいるが、振り返りをしない人というのを、どんな職種であれ私が信用できないのは、そういう理由だ。「やりっぱなし」は、山に独りよがりという名のゴミを捨ててくることと大差ない。

私は現在、文字通り「生命がけ」で文学研究を細々と続けているのだが、その中で思うのは、自分の大切な人にしわ寄せを受けさせてまで、今やっている「仕事」が本当に「自分にしかできない」価値があるのか、と立ち止まることの大切さだ。「この仕事をやるのは今しかない」と思うのはよくある状況だとは思うが、例えば子どもを持っているのなら、子どもの「今、この時」は絶対にもう二度とやって来ないことをどう考えるだろうか。子どもの生命の輝き、その時の年齢の持つ雰囲気、それは写真に撮って残すことはできても、共に生きた時間を過ごすことは二度とできない。それに比べ、仕事の「今」は、実はやり直しも代替要員もきくことが大半だ。子どもの「今」とひきかえてまで、その「仕事」を取ることを自分は本当に選ぶのか。

もちろん、その選択肢も事情も人それぞれだ。やり直しが事実上きかない仕事もあるし、これにかけては他の人では駄目だ、というくらい優秀な知人も実際に何人か思い浮かべることができる(ちなみに全員が母親だ)。働かなければ生活が成り立たない場合も否やはないし、それでもやはり自分は仕事を取ると言うのであれば、それは立派な選択であり、もはや他人がとやかく言う筋合いではないのも当然のことだ。だが、その場合でもあらゆる状況と可能性は常に変化をするのだから、立ち止まって自分の選択肢を見つめ直す必要は依然としてあるだろう。

それよりも私が一番気になっているのは、子どもを持つ女性の多く、特にこれから仕事をしようか迷っている人が、「自分のための(仕事の)時間」のほうが、「子どものために費やす時間」よりも多くならないと、「自己実現」ができておらず「ワークライフバランス」が取れていない、と感じるように仕向けているとしか思えないビジネス書や自己啓発書が多いことだ。こんなことを書くと、さしずめ私は「ワーキング・ウーマンの敵」と見なされてしまうことだろうが、何だか、数多の手帳術の本やビジネス本を書店で眺めるにつけ、「子持ちの女性も何か仕事をしていないと社会につながっていない」と煽る風潮ができつつあるようで、「隙間時間の活用」という名の「時間枯渇術」に振り回されてしまう時間難民が増えているのではないか、と感じてしまうのはどうしようもない。

もっと、いろいろな価値観が、いろいろな提示のされ方をしても良いのではないだろうか。ちなみに、私の来年の手帳は、ガチガチと予定を書き込むのではなく、アイディアなどをメモできる欄の多いゆったりタイプを選ぶつもりだcatface(2009/10/12)

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