« 2009年10月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月

光の粒子? 色素の粒子?

私は根っからの文系人間なので、タイトルのような言葉には無縁の生活を送っているのだが・・・

「光」で考え込んでいるのは、息子の言葉。2歳くらいの、まだ言葉もロクにしゃべれなかった頃、彼はよくアイスコーヒーにミルクを入れるのを見て「カーテン」と言っていた。あの、ミルクが小さな渦を巻きながら沈んでいく様子が、カーテンが風にひらめく感じに見えるのかな、とずっと思っていた。

しかし、一年ほど前だろうか、あれは、朝カーテンを開けた時に、部屋に光が差し込んでくる様子だと言うではないか! これには、本当に驚いた。コーヒーが闇の部分で、ミルクが光だと、はっきり言うのだ。彼には、光の粒子の動きが見えているのだとしか思えない。そういえば、色彩の微妙な差異にもうるさい人で、とても小学生とは思えない渋い(濁っている、というのとは全然違う)色彩で絵を描いたりするので、光と色の人なのだろう。我が息子ながら、凡庸な母には想像するしかない。すまぬ。

そんな私も、最近、通っているデッサン教室で水彩に挑戦するようになった。木炭でのモノクロの世界でも、光と影の濃淡の深みにはまっていたというのに、色彩あふれる迷宮にまよい込んで、いささか困っている(笑)。

Photo_3モノクロ時代の総決算?となった、この水牛のしゃれこうべは、プラスチックの模型ではなくて本物だったので、眼窩の中や眼の下の表面の質感など、興味深く観察しながら描いた。某解剖な方にもお褒めの言葉を頂戴したが、歯科な方でもあるその人には、「歯は適当に描いただろう」とズバリ言われてしまった( ̄◆ ̄;) 。リンゴがチャーム・ポイントだと自負している。

Photo_4そして、水彩の第一作目がこれだ。 この、なんということのない静物だが、問題は机の色。よく会議室においてある、あの長方形の机なのだが、師匠曰く「単に茶色っていうだけじゃないでしょう。よくよく見てみると、紫っぽい色も混ざっているよね。そういう所までよく見て塗らないと、物と机とがバラバラになっちゃうから」と。

「ええ~」と思ったが、茶色に紫を混ぜて塗ってみると、確かに落ち着いた感じになった。

Photo_6 しかし、水彩第二作目の、この剥製。まだデッサンの段階だが、 この鳥は、お腹が白く、背中がブルーグレー。「あの綺麗なブルーを表現できるといいね。あとは、止まっている木なんだけど、あれも茶色の濃淡だけじゃないでしょう」と先生。「影の濃淡も、っていうことですか?」と私。「もちろんそれもあるけれど、あの鳥のブルーが映ってきて、青っぽい色も見えるよね」「ええっ、すみません、私にはあの中に青色は見えない~」「いや、よーく見てください。茶色だけじゃない、いろいろな色素が見えてきますよ。」

お腹が青いのなら、まだ解るけれど、どちらかというと、お腹の白に、木の茶色が映る感じなのではないだろうか・・・・と困惑してしまうが、この師匠も光と色の鬼(笑)なので、私などには到底理解の及ばない、色の粒子が見えているのだろう。

センスというものは、努力は当たり前のことで、その先にあるものだと痛感する。事業仕分けに代表されるルサンチマンの蔓延している昨今、謙虚に受け止めたいものだ。(2010/10/30)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新国立劇場『アラベッラ』

10月2日、新国立劇場でR.シュトラウス/ホフマンスタール作『アラベラ』の初日を聴いた。

『アラベラ』といえば、一つ目の(笑)修士論文のテーマに選び、その後博士課程にいる時にも、慣習的なカットの及ぼす影響について一本小論文を書いたことがる。そういえば、新国立劇場のこけら落とし公演でもあったこの『アラベラ』、その時に初めて公演プログラムの原稿を書いた、思い出の作品だ。

さて、そのような思い入れのある『アラベラ』だが、上記のカットについて書いたのが2000年で、それ以来あまり聴いていなかった。今回、久しぶりに聴いて、「やはり良い作品だ」と改めて実感した。「良い作品だ」と思えるには、良い演奏でなければならないものだが、当夜の演奏は、歌手もオーケストラも素晴らしかったのである。

アラベラ役のミヒャエラ・カウネ、ズデンカ役のアグネーテ・ムンク・ラスムッセンの姉妹役が、それぞれの役柄に良くはまっていて、歌にも説得力があった。第一幕の「でも、相応しい人が」は、民謡的なメロディーの素朴な美しさと懐かしさで有名だが、アラベラの“乙女の憧れ”が歌われるこの場面で、それを聴いたズデンカが「やっぱりお姉さまが大好き」となってしまうのが、少々都合良い「姉妹愛」なのでは?と思わないでもなかったのだが、弱音(じゃくおん)をとても大切にし、響きを抱くように綺麗な声で丁寧に歌い上げるカウネのアラベラは、ズデンカならずとも「あなたのためなら力になるわ」と思わせてしまう魅力を示してくれた。

マンドリカ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーも、朴訥で短兵急なこの役柄に合っていたと思う。慣習的なカットによるところも大きいのだが、たいていの場合マンドリカという男は、「アラベラの裏切りに対する疑惑に苦しむが、誤解が解けてアラベラと結ばれる」という側面が強調されることで、「女に翻弄される可哀想な男」として得をしている部分がある。しかし、この公演では、細かいところまでは確認できないが、あまり通例のようなカットが施されていなかったようで、実はマンドリカがアラベラに対して侮辱的な言葉をしつこく吐き、それでもアラベラはマンドリカへの誠意と、ズデンカに対する愛情、そして自分自身のプライドを保ち続ける、それゆえに、ラストの、マンドリカを赦し水を満たしたグラスを捧げる場面が感動的になるのだ、ということが良く解る舞台になっていた。

また、第三幕でのアラベラとズデンカの大切なやり取りもカットされていなかったと思われるので、互いが互いを必要とし、それぞれが学びあったことでハッピーエンドを迎えることができた過程もきちんと描かれていた。今回は上演時間が少し長いのだが、この作品の本当の魅力を知る上では必要な長さだということだ。

ウルフ・シルマー指揮の東京フィルハーモニー交響楽団も大健闘で、幕開けから、「あ、このモチーフはもうこんなところで鳴っていたんだ」「あそこでもここでも、こんなモチーフが・・・」と、新たな発見をさせてくれた(そんなこともなかなかないと思うのだが・・・)。なにより、“シュトラウスの響き”を紡ぎだしていたことは特筆に値するのではないだろうか。

さらに今回の再発見は、マッテオだ。マッテオ役というのは、テノールの役ということもあり、個人的に「それって、どうよ」というところの多いキャラクターなのだが、オリヴァー・リンゲルハーンの演じるマッテオは、恰好よかった。第三幕で、「すべての責任は私にあります」と言うところも、「それでこそ男だ!」と喝采を送りたくなるようで、この役を少し見直した。

アラベラの父親ヴァルトナー伯爵役の妻屋秀和も秀逸。滑稽でありながら人情味のある、娘たちのために一生懸命な父親の側面が出ていて、これも、これまでの「金のために娘を売った父親」というばかりではない役柄を見直すきっかけになった。ドイツ語のセリフもけっこうある役だが、よくこなれていて自然にこちらも楽しめた。

上記のように、カットを少なくすることで作品のテーマを丁寧に描き出していたことと、歌手たちとオーケストラの双方が、音と言葉の響きのひとつひとつを大切にしていたことで、この作品の魅力を最大限に引き出していた。海外のプロダクションであっても、ここまでの成功はなかなかないかも知れない。かつてこの作品解釈で艱難辛苦した身にも、夢のような感動が沁みわたる素敵な舞台だった。(2010/10/04)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2010年11月 »