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2014年2月

私のヴィオラ遍歴(其の八)

野口タンホイザーの食材もとい贖罪の旅は続きます。さて、私の杖は緑に芽吹くのでしょうか。。あぁでも、ヴィオラが弾くのって、ヴェーヌスベルクのテーマだった・・・ダメかも(^^;;


さて、笑顔で近づいて来たJK。その時はもう見事に音大に入学しており、自信に満ちているように見えました。少し離れたところに何人かいた人たちを指して「あそこにいるの、音大の連中です」と言っていましたっけか。その他にはどんな会話を交わしたのか、もうよく憶えてはいません。ごく小さなエピソードなので、JKは憶えていないでしょうけれど、私の中では何故かドラマの一場面のように残っています。

やがて20代の終わり頃、サヴァリッシュがバイエルン州立歌劇場と共に来日し、R.シュトラウスの《影のない女》を演りました。それを観て(演出はともかく^^;)魂を抜かれ、一大決心をして他大学の大学院に入り直しました。思うところあって入り直した大学院でしたので、さすがにオケよりも研究に時間を割くようになりました。Tオケには当時「練習の出席率は50%以上が義務」という内規があり、それを満たすことが困難になったため、Tオケは退団しました。しかしレッスンは続けました。マイペースでじっくりレッスンの曲をさらえるようになり、それはそれで良かったと今でも思います。

後期博士課程に上がった頃、ひょんなことから、前の大学で書いた修論ベースの雑誌論文をCLASSICAに載せてもらえることになりました。この小論は、やはりサヴァリッシュ/バイエルンの来日公演で魂を抜かれた(いくつあっても足りない私の魂w)R.シュトラウスの《アラベラ》について書いたもので、これが元で完成したばかりだった新国立劇場の公演プログラムに書かせて頂くことになり、そしてなーんとこの公演でピットに入っていたのは師匠が属するオケだったのです。ある意味、初の師弟共演(笑)。

その頃からは、何となくですがオペラの世界に軸足を移した感じになり、ヴィオラのレッスンだけは続けましたが、オケで弾くことも全くなくなりました。入り直した学校が音楽活動の非常に盛んなところでしたので、時おりアンサンブルはしました。それで私には充分でした。

今回の頭に書いたエピソード以降、JKとの接点は一切なく、風の便りにY響に入ったと聞いたきりでした。が、月日は流れて、意外な形で再会を果たすこととなるのです。(続くーw)

(2014/02/28)

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私のヴィオラ遍歴(其の七)

何やら文章が告解のような感じになってきました・・・気分はもう、何となく、タンホイザー。(^^;

JKが音大を、しかも小さい頃から習っているヴァイオリンではなくヴィオラで目指すという話を聞いた時は、本当に驚きました。その話を聞いた後も何度かJKには大学で会いましたが、決心は固いようで、もう誰も介入できないような雰囲気。楽器をさらう頑なな背中を、ただ黙って見るしかなかったのです。

一方で、私のTオケを始めとした華やかな(?)オケ荒らし生活はますますエスカレートして行きました。土曜・日曜で本番二連チャンなんてこともやっていました。金曜の夜に一つ目の本番のGP、土曜日の午後に本番、その足で夜に二つ目の本番のGP、日曜日に本番。とまあ、こんな感じです。いやぁ、若かったですね(遠い目)。

そんな生活でしたので、仕事とオケだけで手一杯で、いつしかレッスンからは遠ざかって行き、当然それに伴って弾き方もどんどん荒れて行きました。名実ともに「オケ荒らし」です。それでもトラで行った先では、派手なアクションの弾きっぷりに感嘆されて鼻高々だったのですが、さすがにTオケの人達には「もうちょっといい音で弾け」と言われ反発していました。つくづく、若かったですね。。。

しかし、さすがのノグチも「このままだと、ちとヤバいかも」と思い始め、「基礎からやり直そう」と殊勝な気持ちで門を叩き弟子入りさせて頂いたのが、現在の師匠です。

あの第一回目のレッスンは未だに忘れられません(師匠は憶えていらっしゃらないと思いますけれど^^;)。「何か弾くものを持ってきてね」と当然言われていたわけですが、その時はもう三年くらいオケの曲しか弾いていなかったので、前の先生のレッスンで最後にやったカンパニョーリのカプリスを持って行きました。

途中で止めることもせずにじっと黙って聴いていた師匠、私が一通り弾き終わると、「弾くこと自体にはずいぶん慣れていらっしゃるようだけど」と。「はいぃ」と返事をしながら内心(やっぱり私、結構イケてる?)と殊勝な気持ちはどこへやら。

「だけど、ちょっと、音がね」
「は・・・」
「音をもっとこう・・・。例えば、豪華な装飾を施した家具があったとしてもね」
「はあ・・・」
「山からね」
「は? 山ですか??」
「つまり、山から質の良い木材を切り出してきて作らないと、いくら飾りたてても価値がない」
「・・・・(汗)」
「だから、あなたの指が回るのはよくわかったから、音質を良くするところから始めようか」
「・・・・(滝汗)」

そしてその日は、もうひたすら開放弦のボウイングのみ。「開放弦で楽器を鳴らせなければ、いい音で弾けるわけないから」と。おっしゃる通りです。返すコトバもございません。レッスンを終えて、満身創痍、いやまさに慢心創痍でヨレヨレと帰宅しました。

それから暫くはスケールとエチュードのみで曲は弾かせてもらえず、地道な肉体改造、、、と言うより、肉球改造(笑)に取り組みました。弓を弦に思いっ切り圧しつけて「ガリッ」「バリバリッ」と弾かないと弾いた気にならない、典型的なアマオケ弾きになってしまっていたので、音を潰さず、響かせて弾く、というのが何とも物足りなく感じられるほどでした。もう、これは末期的症状です。ここまでになってしまったクセを矯正するのは本当に大変でした・・・・

そんな風に師匠に鼻っ柱をへし折られた頃だったでしょうか、JKに街でバッタリ会ったことがありました。多分大学の最寄り駅近くだったと思います。辺りはもう暗くなっていて周囲が誰かなどと気にも留めずに歩いていたら、「野口さん!」と呼ぶ声が。声のほうを見ると、満面に笑みをたたえてJKが近づいて来たのでした。(続く)

(2014/02/27)

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私のヴィオラ遍歴(其の六)

JKの不撓不屈の精神に根負けし「そこまで言うのなら、わかったよ」と言う私に、「いいですか? 本当に!? やったー!」と、パートリーダーを引き継いでいたHと手を取り合って喜ぶJK。オペラなどであれば、ここは「私が悪かったのだ」と反省すべき場面です。が、私はと言えば、この時に軽い(?)敗北感を味わっていたのですから全く救いようのないヤツです。まぁでもこれもオペラの悪役っぽくはあるでしょうか(苦笑)。

ヴィオラに移って来てからのJKは、実によくHのサポートをしていました。ヴィオラパートに限らず後輩たちの面倒見も良く、その姿は献身的とも言えるほど。一見したところは相変わらずとんがっていましたけれど(笑)。

その様子を見て、「もう大丈夫だ」というよりも「もう、いいや」という卑屈な気持ちに近い感情を持ってしまった、とことん小者の私が出た暴挙とは何か。それは、卒業してから入ろうと思っていた、あのTオケに飛び込んだことでした。

Tオケは別世界でした。団員個々人のレベルも高く、いきなり渡された譜面が、《牧神》《キージェ中尉》《悲愴》。《牧神》はともかく、大編成の大曲ばかりです。でもそれだけにとんでもなく魅力的に感じられました。何よりヴィオラパートが大所帯で、セクションで出す音に厚みがあることに夢中になりました。それまではトップとして自分が一番音を出してパートを引っ張っていかなければならなかったものが、自分の音がその厚みの中に溶け込む感触は、何とも得がたいものに感じられたのです。

入団のためのオーディションは問題ありませんでしたが、「入団後初の夏合宿は全日程参加」を条件に出され戸惑いました。大学オケの夏合宿と日程の一部が重なっていたので一瞬、迷ったものの、「もう、いいや」だった愚か者の私は、Tオケの合宿を取り、そのあと途中から大学オケの合宿に参加したのでした。

確かに、Tオケで演るのはいつも大曲ばかりで、さらうのに時間がかかるという事情はありました。団員になった以上は、Tオケからの要求に応える必要もあります。しかし、ここが私のしょうもない部分なのですが、「自分はこれまで孤立無援の状況で、充分に頑張ってきた。我ながら充分過ぎるほどだ。無理だろうと言われながらも不可能を可能にしたんだ。自分自身の努力によって。だからもう好きにしてもいいじゃないか」としか考えられなかったのです。

「自分自身の努力」・・・これは事実ではあります。ですが真実からは程遠い。何故なら、そのたゆまぬ努力も、部室に行けばいつも誰かがいて、パートは違っても皆それぞれ熱心にさらっていて、時には室内楽のアンサンブルをやって息抜きをしたり、閉められてしまった校門を共に乗り越えて脱出する仲間がいたからこそ続けられたことだからです。自分はそれほどまでに仲間やOB・OGに支えられていながら、当時まだ現役であったにも拘らず、その大切な大学オケに背を向けてしまったのです。

4年生冬の定演に向けた練習も、Tオケの曲をさらうほうに気を取られて休みがちでした。卒論を書いていたこともあり、物理的に時間が足りない!と常にイライラしていました。ほかの誰でもない、自分の責任なのに。もちろん冬の定期演奏会には出ましたが、卒業するとTオケの活動にどっぷり浸り、大学オケには殆ど顔を出さなくなってしまいました。

そして卒業後、一年ほど経った頃でしょうか。JKが大学を辞め、音大を目指すそうだという話を聞いたのは。(続く)

(2014/02/26)

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私のヴィオラ遍歴(其の伍)

ヴィオラというパートは、どこのオケでも大抵は人手不足です。ウチの大学オケも例外ではなく、OBとOGだけではまかないきれないため、トラ集めもパートリーダーの重要な任務でした。そして、トラに呼んだらそのトラの所属オケにもトラで呼ばれることに当然なります。そして行った先で「では次はウチにも・・・」と、さらにトラに呼ばれ・・・・芋づる式ですね。

私も2年生の後半あたりからぼちぼちトラで呼ばれるようになり、3年生の時はもう凄いことになっていました。年間で20回近く本番に乗ったと思います。初心者で始めた普通大学の学生にはあり得ない数です。音大生のわけでもないので、さすがに日常に支障を来たし始め、お断りはするのですが、それでも二度三度と電話を頂き熱心にかき口説かれて、悪い気のするはずがありません。単にどこもトラ集めに必死なだけなのですが(笑)、私はどんどん慢心し、「本番の数=実力の証」と考えるようになっていってしまいました。

今思えば、若気の至りとは言え本当に恥ずかしいことですし、後輩たちにもずいぶん迷惑をかけたと思います。でも外でチヤホヤされて、「また音大生に間違えられちゃったよーん」と、もうこの勘違いは留まるところを知りません。4年生になってパートリーダーも後輩に譲ると、もう自由の身だと言わんばかりにあちらこちらのオケにヴィオラ一挺担いで乗り込み、荒らしまくっていました(爆)。

そんな私に、「Hさん(後輩)たちが可哀想だよ」と忠告してきたのがJKでした。

そして、「ヴィオラが大変みたいだから、自分も野口さんの突撃びおら隊に入れてください!」と言って来たのです。私が良くできた人物であったなら、ヴァイオリン経験者として鳴り物入りで入ってきたJKが、ヴィオラに来てくれるということを喜んだでしょう。でも、入部の時の “あの言葉” にいつまでも拘っていた小者の私は、「お前なんていらないよ」と言ってしまったのです。

ですが、とんがっているように見えて実は非常に誠実なJKは、その後も何度もヴィオラパート入りを打診して来ました。私の家にも電話してきたことがあると記憶しています。「私の目の黒いうちは入れてやらん!」と冷たくあしらい続けた私もついに根負け、JKは突撃びおら隊の一員になりました。

今となっては正確な前後関係が不明瞭な部分もありますが、普通ならここで「さすがのノグチも改心し、卒業までの半年間、先輩として後輩のために尽力したのでした。」となるところでしょうが、もはや傲慢としか言いようのないまでに天狗になっていた私は、更なる暴挙に出たのでした。(・・・続く)

(2014/02/25)

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私のヴィオラ遍歴(其の四)

このヘンタイびよらシリーズも、ごく一部の(笑)皆さまに後押しされて、早くも連載第四回です。一体いつになったら終わるのか・・・先が見えなくなってきました(^^;

私を襲った激動の嵐とは・・・

冬の定演が終わったら、ヴィオラパートが私ひとりになってしまったこと!!

私が入部した時点では、4年生の先輩と2年生の先輩がいました。3年生はいなかったけれど、すぐ上の先輩がいると安心していたところ、その2年生が突然退部してしまったのです。どこでもそうだと思いますが、3年生が執行学年で、よほどの経験者でもない限りは3年生になってからパートリーダーを務めます。

私も1年生の秋頃にやっとレッスンに付き始めてはいましたが、技はノンビブラート、ファーストポジションのみ。それが、いきなりパートリーダー、いきなりトップ〜!? しかも、4年生の先輩は就職などで忙しく、年が明けてからは殆ど出て来られない。当然、春合宿も孤立無援で臨まなければなりません。

幸か不幸か、次の定演のプログラムは、モーツァルトの《プラハ》とハイドンの99番(序曲は失念)。基礎力を付けるには良い曲ですが、やはり表現が難しい。ハイドンもモーツァルトも、ピアノで「単に弾けるだけじゃ曲にならない、サマにならない」ことを痛感させられてきた作曲家だけに、かなり緊張しました。

しかし、ここからはさすがのノグチも、馬車馬のように猛進しました。レッスンにも真面目に通い、朝イチで学校に行くと、まず部室に行って練習。語学や必修科目のみ毎回出て、あとの講義は迷子にならない(=単位を落とさない)程度に出席、授業の合間にも部室で練習、放課後ももちろん練習練習。晩ご飯を部室に残っている仲間で食べに行って解散。そんな日々を送るようになりました。良い子の皆さんは真似をしないように。

「やっぱり、ポジションはサードくらいは使えないとねー」
「やっぱり、そこはビブラートが欲しいよねー」

というお上wの要求にも応えるべく、レッスンの先生には内緒で(まだ早いと、許してもらえなかったので)練習して「もどき」は何とかできるようになり、本番もOBやOGのご助力で乗り切りました。

そして2年生冬の定演はベートーヴェンの大曲《エロイカ》。これはもう、夏休み返上で毎日部室に通いつめて練習に練習を重ねました。自分を鼓舞するためにも、閑古鳥の鳴いていたヴィオラパートを「突撃びおら隊」と名付け、1年生二人を率いてがむしゃらにやっていました。お陰さまで、このエロイカが本番を迎える頃には、他のパートの先輩方からも「春は危なっかしくてハラハラしたけど、もう大丈夫、って感じね。安心して見ていられる」と言葉を掛けていただき、涙が出るほど嬉しかったです。

そして、いよいよ執行学年の3年生。私たちの学年が団を引っ張って行かねばなりません。その時に入ってきたのが、JK。いえ、ヴィオラではなく、ヴァイオリンに経験者として入ってきたのですが・・・。その時ヴィオラ希望者がまだいなかったので、「お前、ヴィオラやらねぇ?」と同期の奴が言ったところ、当時かなーりとんがっていたJKはこう言い放ったのです。

「ヴィオラですか・・・あんなもん、自分はやりませんよ」

と。

ふーんだ、そんなこと言うヤツはこっちから願い下げだー!と思ったのでしたが、そのJKこそ、後にいろいろあって、もはやこれまでかと、ヴィオラを弾くことを諦めかけた私に、再び楽器を手に取らせることとなるキーパーソンたる人物なのだとは、その時には思いもよらなかったのでした。(続く!ww)

(2014/02/24)

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私のヴィオラ遍歴(其の参)

ごくごく一部(笑)で反響が大きく、続きを急かされていますので、どんどんアップ(^^;)。

そんなこんなで入部して一ヶ月経った頃のこと。春の定演のために日曜練習が始まりました。所帯の小さなオケだったので、OB・OG、そしてエキストラの助けが必須だったため、テュッティの練習は日曜日に行われていたのです。

我々新入生は、来る日も来る日も、ひたすら開放弦のボウイング練習。別にそれが苦だったわけでもなかったのですが、気を遣ってくださった先輩から、「今日、Tオケの定演があるから、皆で聴きに行きなよ。チケット人数分あるよ。先輩も何人か出てるから」と言われ、大学のある区とはお隣の区にあるTオケの演奏会に出掛けたのでした。

たまたま、前プロがハイドンの《ロンドン》で、大学オケがその時メインにしていた曲だから、ということもあったようですが、私が惹かれたのは、Tオケのメイン・プロがブルックナーの第4番だったことです。高校生になって室内楽を聴くようになった一方で、対極とも言えるブルックナーのシンフォニーにズブズブとはまり始めた私、《ロマンティック》はノヴァーク版で入ったこともあり、ハース版に今ひとつピンと来なかった矢先のことで、そのTオケは(確か)ノヴァーク版でやると! これは行くしかないでしょー。第2楽章のヴィオラのソリ、どうなっちゃうんだろ〜。などと思いながら会場へ。

いやー、たまげました。あの長丁場のヴィオラのソリ(それも二回も出てくる)を、一糸乱れず弾かれた日には。プロオケじゃないのに。アマオケなのに。ちょっとくらい乱れたり音程がズレたりするだろうという予想は、見事に裏切られました。今でこそ、どこのアマオケでも大学オケでも、ブルックナーやマーラーは当たり前に採り上げられますが、当時としては大変に稀有なことであったと記憶しています。

これが私とTオケとの運命的な出逢いでした。

そして、私は決心したのです。「卒業したら、このオケに入ろう」と。

つくづくお目出度いヤツです。だって、まだ左手は全く使えず、開放弦のボウイングしかやっていなかったというのに、よくもまああんなことを考えたものだと我ながら思います。

普通はこの流れで行くと、「それからノグチは日々練習に励み、その努力の甲斐あって上達していったのである。」となりそうなものですが、そこは私のことです。他のことにも目が行ってしまい、先輩に勧められてもレッスンにつくことを拒み続け、良くも悪くもマイペース、そこそこに楽しみながらオケ生活を続けていました。

冬の定演では、モーツァルトの《劇場支配人》序曲に乗り、初めてオーケストラ曲の中に入って、「わあ、自分の音が周りと溶け合ってる!」とひどく感銘を受けました。あの時の気持ちはいつまでも忘れずにいたいものです。

そして間もなく、そんなお気楽オケ生活を送っていた私を、激動の嵐が襲ったのでした。
(続く〜w)

(2014/02/24)

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私のヴィオラ遍歴(其の弐)

さて、大学に入学し、辺りはサークル勧誘で大賑わい。私もオケの人から勧誘されるのを待ってフラフラ彷徨っていましたが、一向にその気配なし。三日目に痺れを切らして(笑)自分からオケの出店へ向かいました。

「弦楽器と管楽器とどっちが希望?」との問いに「弦楽器で!」と即答。
「パートは? ヴァイオリン? チェロかな?」
「(え〜、やっぱりヴィオラは一杯だという牽制質問なのかなー)あのおー、できればヴィオラを・・・」
「え? ヴィオラ? ヴァイオリンじゃなくて?? ほんとにヴィオラ!?」
「えと、あの、もしヴィオラがだめならヴァイオリンでもいいんですけど・・・」
「いや、そうじゃなくていきなりヴィオラだなんて・・・あっ、Mさーん! この子、ヴィオラ希望だって!!」

そこにたまたま、ヴィオラパートの当時4年生、Mさんが通りかかったのでした。

「えっ! ヴィオラ!? じゃあ、これから部室に行って音を出してみましょう」と、手首を掴まれ部室に拉致されました。

「はい、じゃあ左手で右の肩をつかんで、楽器を顎に挟んで・・・」と、いきなりMさんの楽器を構えさせて頂き、弓まで持たされるという、出店を訪れてから10分ほどの間に繰り広げられた急展開にアタマと気持ちが付いていっていない私。言われるままに弓を弦に乗せ、ちょっと横に引いてみたところ。。。

「凄い! いきなり音出たね! スジがいいんじゃない? 見どころあるよ!」

・・・はい〜、どこからどうみてもリップサービスなわけですが、憧れの!ヴィオラに触ることができて、もうアタマがボーッとなってしまっていたものか、愚かにもその言葉を鵜呑みにして、ほいほい入部したのでした。そこから先に待っている苦難を知る由もなく・・・
(続くw)

(2014/02/24)

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私のヴィオラ遍歴(其の壱)




問わず語りに相方に話したらウケた(?)ので、記録に残します。

こう言うのもナンですが、と言いますか驚かれることが多いのですが、私がヴィオラを弾き始めたのは大学に入ってからです。

私も例に漏れず、まずヴァイオリンの音色の虜になりました。中学生の時にヘンリク・シェリングのバッハにはまり、当時月3000円だったなけなしのお小遣いでLP(死語!?)を買って聴きまくったものです。

やがてチェロの音に惹かれるようになり、興味はコンチェルトやシンフォニーから室内楽へと移って行きました。高校生の頃です。室内楽を聴くうちに、忘れもしない、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲で耳に留まったのがヴィオラの音色。演奏は、フィルハーモニア・カルテット・ベルリン、ピアノはヤン・パネンカ。ヴィオラ奏者は土屋邦雄さんです。何だ、このヴァイオリンでもチェロでもない音は? ライナーノートを見ると、どうやらヴィオラらしい。

そこで、学校の図書室でヴィオラとやらについて調べてみました。それによると、ヴァイオリンやチェロのような華やかさはないが、ハーモニーには欠かせない楽器であり、特に室内楽では重要な位置を占める、と。そっかー、ヴィオラって重要な楽器なんだ!

そして、タイミングが良かったのか悪かったのか。高校3年生の時に、ユーリ・バシュメットがモスクワ・ソロイスツと初来日。スピヴァコフとモーツァルトの協奏交響曲を絶妙かつ鮮やかに弾いていったのです。受験生でしたので演奏会には行きませんでしたが、テレビで聴いた私、「よし、大学に行ったら、私はこの楽器をやろう」と決心したのでした。

知らないということの何と恐ろしいことでしょう。「大学オケで、もしヴィオラが超人気パートで定員一杯だったら、その時は仕方ないからヴァイオリンで手を打とう」と、オケ部の門戸を叩いたのでした。(続くw)

(2014/02/23)

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オリンピック女子フィギュア




まだまだ寒い日が続きます。ソチオリンピックも佳境を迎えていますね。私も御多分に洩れず、フィギュアスケートは毎年グランプリシリーズも楽しみにしている派。

それがオリンピックともなれば、やはりライブで応援したいもの。そこで一昨日の女子シングル・ショートプログラムは老骨に鞭打って第4グループまでは起きていたのですが(そのあと沈没)、もう二日続きで夜更かしは無理と、昨夜は寝てしまいました。そして今朝のニュースで浅田選手がフリープログラムで素晴らしい演技をしたと知り、不覚にも落涙。

ショートプログラムもこれまでのようにできれば勿論それに越したことはなかったでしょうが、「まさかの16位」と驚かれる状況の中、むしろ余計な圧力やしがらみから離れたところで、自分のスケートができたのかも知れません。「今まで支えてきてくれた人たちのために」という思いは疑う必要もないのでしょうけれど、自分のために、スケートのために滑ることができたのではないかと拝察します。そしてそれが何よりの周りへの贈りものになりました。誰よりも彼女の苦悩と努力を知っているはずの佐藤コーチの表情がそれを物語っていたようにも感じました。

今回はメダルは取れなかったけれど、前回のオリンピックで銀メダルを取りながら無念の涙を流していたことを思えば、自分の納得の行く演技をすることが一番大切なことなのだなと、改めて思いました。結果はそれについてくるだけのことですものね。

鈴木選手は、あの、スケーティングのほうが音楽を惹き出しているかのような演技が今ひとつ発揮できなかったのは残念でしたが、彼女曰く「何歳からでもできるということ」、むしろ、今の歳の彼女だからこそできたことであったのは確実に伝わったと思います。制限を自分で自分に設けてしまわないことって、思った以上に大切なこと。村上選手、ガッツだ!

キム・ヨナ選手のスケートもさすがの仕上がりでしたね。敵ながらあっぱれです。実はロシア贔屓の私、ソトニコワ選手に心よりおめでとうを! リプニツカヤは愛しくて抱きしめたい(*^^*)。

冬来りなば、春遠からじ。芸術の前には、我々は謙虚に跪くしかありません。そのことは常に心に留めおきたいと、つくづく思います。

(2014/02/21)

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ミサ・ソレムニス




雪が溶けぬままの昨日、府中アカデミー合唱団の定期演奏会を聴きに行って来ました。お目当ては、メインのミサ・ソレムニス(ベートーヴェン)です。

会場は府中の森芸術劇場どりーむホール。私も結婚するまではバリバリの(?)府中市民で、府中オケにもエキストラで何度かお邪魔しており、その折に出来て間もなかったここの舞台に乗ったこともあります。

そんな懐かしい場でのミサ曲。中学・高校とカトリックのミッションスクールで育った身には、とても身近な言葉の数々。ただし、私は結局思うところあって(そのための勉強もしたのですが)受洗には至りませんでした。ですので、とても久しぶりに御ミサの通常文に触れました。今では主の祈りも口語訳になっているそうで、もはや私は遅れた存在なのかも知れませんが(^^;、今回のプログラムに載せられていた訳文は、私がまだ諳んじられる文語調のままでちょっとジンと来ました。

そして、音楽の力を今更ながら痛感させられることにもなりました。もろもろのことや思いが一気に押し寄せてくるようで、これは私自身のかなり個人的な体験による受容になりますのでここには書きません。ただ、いくら「個人的な体験に基づいた受容」とは言っても、それは音楽と、やはり歌や演奏が良くないと起こり得ないものでもあります。

日常的に御ミサに参列していた頃はまだ若かったこともあり、それほど深く考えずに口をついて出てきていた言葉たちでしたが、その一つ一つが、歌に乗せて届けられるとこんなにも深い御言葉(みことば)であったのだと、改めて受け止める機会となりました。

この公演をお知らせくださったもっちぃ様、どうもありがとうございました。ちなみに、写真のヴィオラは、昨年の秋に息子がお小遣いで私のために買ってくれたもので、今また花を付けたのでした。
(2014/02/17)

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図書ボランティア




寒い日が続きますね。単に寒い、と言うよりも底冷えのする感じです。

子どもの通う小学校での図書ボランティアは、そんな寒い朝のホームルーム(死語?)が始まる前、15分の間に活動しています。今日は、写真に写っている二冊を読みました。

子どもというのは本当に一番厳しい判定者で(苦笑)、つまらないことをやったり、先が見え見えの読み方などしようものなら、たちまち集中力をなくします。

皆が既によく知っているお話であっても、惹きつけることのできるような読みをしなければ、あまり意味がありませんよね。今日はその意味で、50点くらいだったでしょうか(^^;;

この学校での図書ボランティアも、残すところ、来月のあと一回。中でも苦しんできた(?)古典落語で締めくくることになります。できる限りの準備をして臨みたいと思います。

(2014/02/12)

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雪!




イェティの仕業か、昨年1月を上回る大雪になりました。

我が家のベランダで、ワイン様が遭難していらっしゃいます。

早くお救いせねば。

皆さまも、どうぞお気をつけてお過ごしください。

(2014/02/08)

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朗読コンサート Stimme vol.1 終了

Photo
《言葉と音楽の邂逅》と銘打った朗読コンサートシリーズの第一回目「詩と音楽の饗宴」が、無事に終了いたしました。ご来場くださった皆さま、そして来られなかったけれども、激励のメッセージをくださりお気に留めてくださった方々に心より感謝いたします。

まったく存じ上げないお客様から、「とても良かったです。第二回目も楽しみにしています」とおっしゃっていただいたり、お出でくださった方たちが皆さん喜んでくださっていたのが、とても嬉しく励みになります。

中でも、長くイタリアで活躍なさっていた声楽家の方に、

「声楽のレパートリーではカバーできない音楽的欲求が充たされ(…)コンサートが終わって、体の奥から、『幸せ!!!』という声が聞こえたのです。(…)作品の研究の深さに感嘆!!!(…)こういうコンサートこそ、声楽家の皆さんに聴いて頂きたいです」

とのコメントを頂いたことが・・・・。私が「やりたい」と思ったことを、こんなにも深く汲み取って頂いて、涙が出るほど嬉しかったです。この企画を立てたことが、充分すぎるほど報われた思いです。

私はずっと文学研究を続けてきて、自分は表に出るよりも、書庫に埋もれて文章で発表するほうが性に合っていると信じていました。けれども、子どもの小学校で絵本の読み聞かせボランティアをやるようになり、子どもたちのキラキラした目に囲まれ、また朗読教室に通うようになって、これまでいわば内向きに省察してきたことを、「表現したい」と思うようになっていきました。もちろん、論文や学会発表も表現の一つではあるのですが、ずっとアマチュアで音楽活動をしてきていたこともあり、パフォーマンスとしての表現をしたくなったのです。

そして始めた朗読コンサートですが、理解者・協力者に恵まれながらも、周囲には半信半疑の人も少なくなく、決して平坦ではありませんでした。けれども、昨日の手応えは、今後も活動を続ける強い励みになりました。

次回は10月5日(日)14:00〜、慶應義塾大学三田キャンパス内にある北館ホールで行います。

どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)。

(2014/02/03)

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