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2014年10月

Stimme vol. 2 レクチャー・コンサート終了





台風が近づくなか、Stimme vol. 2 フーゴー・フォン・ホフマンスタール生誕140周年記念レクチャー・コンサートを開催いたしました。個人的には大小の事故があり、反省点も山盛りですが、皆さまのご理解に支えられて無事に終えることができ、今は幸せな気持ちでおります。

今回もヴィオラ奏者・中山良夫先生の演奏が素晴らしく、いろいろな面で助けて頂きました。心より感謝いたします。こういった精神的な面でもやはり私は弟子なのだなと改めて感じます。







実は、中山先生はご不幸をおしてご出演くださいました。ご事情は数週間前から伺っており「何があってもやるから」とおっしゃって頂いていました。ですが本番前日にお知らせを受け取り、私も少なからず動揺しました。今回のプログラムを考えたときには勿論このようなことになるとは考えてもいなかったわけですが、ストラヴィンスキーの《エレジー》で始まり、続いてホフマンスタールの詩「無常について」を朗読するという構成でした。

哀しみが静かに水面(みなも)に広がってゆくような《エレジー》を受けて「無常について」を読む・・・少し震えを感じながらの朗読となりました。私は「この悲しさのメッセンジャーで、お客さんに届ける役」なのだとある人に言われたのですが、その大役が務まったかどうか・・・。「表現」するためには、いろいろなことを受け止めることもできなければならない。これまでにも漠然と感じていたことではありますが、今回は痛いほどにそのことを感じました。なおかつ、本来はそれを「表現」にまで高めなければならないわけで、私はまだまだ力不足でした。







終演後に慶應の後輩たちと打ち上げをした際、演劇でもオペラでも、照明や音響の効果を扱う技術は今の若者たちは器用で大したものだけれど、幕切れで「え? それで?」と消化不良の疑問を感じさせてしまうものが多過ぎて、その時点でいかがなものかと思ってしまう、やはり台本つまりテクストが力を持っていなければ劇場や舞台は衰退すると感じる、と言った後輩がいました。それは恐らく、私が感じている「表現」と通ずるものがあるだろうと思います。その後輩は「思想も信条もない、そういう年代の子たちの現状なのだろうと感じている」という言い方をしていましたが、確かに自分の中に核となるものがなく、戸惑っていることの現れとしての「表面的で器用にまとめられた(?あちらこちらにとっ散らかったままのものも見受けられるようですが)形骸」的表象になってしまっているのかも知れません。

その解決策として最も重要なのは、その後輩も言っているように、やはり「テクスト」なのだろうと思います。ですから、R. シュトラウスにとってもホフマンスタールが必要であったのだろう、ホフマンスタールのテクストであったからこそ、あのような傑作ができたのだろうと今更ながら再認識しました。

テクスト(文学作品)の持つ根源的な力というものは、時代を超えて働きかけてくるものです。それを軽んじた解釈が消化不良になるのは当然の帰結であって、このような指摘を「テクスト偏重の保守あるいは旧弊」という言葉で退けようとするのは、事の本質を見失いかねない、とても勿体ない、暴力的ですらある行為だと思うのです。

何故この歳になって私は朗読をするのかというと、上記のことを自分で確認したいからなのかも知れません。つまり、これまで心血を注いできた文学研究を「表現」に転換し、自分にとってもう一つの大切な表現へのアプローチである音楽との関係性も模索する、ということです。そしてそれには、共演者も大切だということも実感しています。今回お聴きくださったある方が「朗読と音楽が互いを侵食しあうことなく高めあっていて、聴いているのがどちらも楽しかった」とのご感想をお寄せくださいました。まさに私が求めているものを受け取ってくださったわけで、これは理解ある共演者を得られたからこその成果なのだ、これも共同作業なのだ、と、とても満たされた思いになりました。

この試みは、まだまだ続きます。
(2014/10/06)

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