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2015年2月

望月哲也 Wanderer Vol. 6






昨日は雨模様のなか、テノール歌手・望月哲也さんのリサイタルシリーズ、Wanderer Vol. 6「美しい言葉〜日本の名曲」を聴きに、銀座の王子ホールまで。

本来ひらべったい発音の日本語を、西洋音楽の語法に乗せて歌うことはとても難しいとよく言います。しかし望月さんの歌う日本歌曲は、発語・発音の処理は無論のこと、シラブルの扱いが際立っており、日本語としてとても美しい。これは稀有なことと言えるでしょう。

そして「不滅の日本歌曲の魅力」というテーマで編まれた今回のプログラムには、望月さんの強い思いと意思をひしひしと感じました。《早春賦》や《さくらさくら》など春に関する馴染み深い歌を4曲歌った後に(《春の小川》の「さら、さら」という表現にハッとしました)、立原道造、三好達治、谷川俊太郎の詩による歌が続いたのですが、としつきを経た静かな愛を詩う立原と谷川の詩のはざまに置かれた三好の《鷗》。4行1連の各Stropheの、1行目と4行目で「つひに自由は彼らのものだ」と歌われ、これが6連あるので、インパクトは絶大。繰り返されるごとに迫り来るものがあり、ここでまず落涙。

さらに、特攻隊員が書き遺した言葉に基づいた、信長貴富の《Fragments ーー 特攻隊戦死者の手記による ーー テノールのために》。語りの部分も多く、メロドラマかモノオペラの趣のある作品で、歌の部分と語りの部分との対比が、背後に迫る死への緊張感と、緑を見つめる視線の透明な美しさとを哀しいまでに際立たせていました。会場のあちらこちらですすり泣く声がし、私も「お母さん、さようなら。」で涙腺が決壊。これらの言葉を遺した人たちが18歳から23歳までの、まさにこれからの若者であったことに、いまプログラムを読み返しても泪がにじむのですが、この涙を、単なるメランコリーやノスタルジーに帰してしまってはいけないのだ、という思いも、作品と望月さんは語りかけて来たように思います。

今、この時に、このような内容の作品を取り上げ、これだけの完成度で呈示してみせたことに、声楽家・望月哲也の表現者としての気骨と気概を感じます。このひとはしなやかで勁(つよ)いひとだ、と感服しました。

「彼らの言葉に音楽がついたら、それを伝えるのが僕らの役目ではないかと。」と、望月さんもご自身のブログのなかで言及なさっているように、音楽だけでもなく、また言葉だけでもない、声楽曲のみが成し得る偉業。

そして、《鷗》と《Fragments》の間に置かれたのが、望月さん作詞の新作。立原と谷川のうたっているのが「大人の愛」であるのに対し、望月さんがうたうのは若々しい恋と、ほろ苦い初恋の回想。初恋は儚いものだけれど、いつまでも自分の内に留まる、この歌がいつか初恋のひとに届きますように・・・。切々と作詞者本人がこのことばを歌い上げたとき、確かに「歌」は届き、この初恋が芸術に昇華した瞬間だったのでしょう。プログラムに「自分をさらけ出すようで、最初は吐きそう」だったと書いておられましたが、作品という形に結実させられるのが表現者の素晴らしさ。

前半ですっかり魂を抜かれてしまった私ですが、後半も野口雨情、萩原朔太郎、中原中也、etc.・・・と目白押しで、小者の私はもう青息吐息(苦笑)。前半は「日本の歌の過去と現在」、後半は「大切な日本の歌」と題されており、後半に並べられた曲はまさに「現在に生きる過去(フーゴー・フォン・ホフマンスタール)」なのだろうかと拝察。

同行者は、全体によく練られたプログラムで、《Fragments》での表現・語りも「さすがオペラ歌手だけあって凄く上手かった」と言っておりました(泣いていたかどうかは不明w)。後半では山田耕筰の《雨情民謡集》に感じるところ大だったようです。

河原忠之さんのピアノも素晴らしく、言葉に寄り添い、言葉を損ねることなく、しかし決して変に音量を抑えることもなく、それゆえに言葉と響き合って「歌」の空間を創り上げてゆくそのさまは、いつ聴いても感動的です。

このリサイタルの場にいられたことを、心より幸せに思います。(2015/02/09)

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