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2017年7月

東京二期会《ばらの騎士》




東京二期会の《ばらの騎士》を観ました(7月27、29日 於:東京文化会館)。

プログラムに載っていた演出家リチャード・ジョーンズのインタビューは読まずに2日とも観たのですが、このオペラで描かれている人物配置を全て戯画化しようとしているのだろうという意図は伝わってきました。そして、その手段としてエロティシズムを用いていることも。

第1幕は全裸のマルシャリンが湯浴みするシーン…というのは上品な書き方で、実際には公園かどこかの安っぽい噴水かと見紛うようなシャワーシーンで始まります。髪型もローブ姿も見分けがつき難く似た雰囲気にしつらえられたオクタヴィアンとの絡みは、まるで姉妹かレズビアンのようにも感じられる仕草で、その後フロイト(プログラムにもはっきりクレジットされています)が登場し、そして明らかに「フロイトの椅子」に仰向けにマルシャリンが横たわるのを見るにつけ、これはジェンダーの枠組みを壊す意図があるのだろうと察せられました。フロイトはホフマンスタールらと同時代人なので、この演出の時代設定をホフマンスタールやシュトラウスが生きていた「現代」に定めているとしたら、十分に整合性があると言えます。

第2幕のファーニナル邸の金ピカ噴水は、もちろん成り上がり貴族の象徴としても使われていたのでしょうが、オックスの息子レオポルトがやおら靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、それを「FANINAL」のロゴに麗々しく(?)引っ掛けて裸足で水の中に入る、するとオックスの家来がファーニナル家の召使い達に手を出す騒ぎになる。これが意味するものも、はっきりしています。

第1幕のシャワーと第2幕での噴水。言うまでもなく「水」はフロイト的解釈では性的なコノテーションを持つものです。第1幕では、マルシャリンが身体を洗うのに使ったスポンジをモハメッドがこっそり絞り、それを飲み干す所作まで見られました。これだけ露骨かつ明確に演出家からのメッセージが発せられているのに、この「性的」な視点が、見た限りの感想で取り上げられていないのは不思議としか言いようがありません。実際、プログラムのインタビューでも「ジェンダー・ポリティクス」という語に言及されているのが見られますし、マルシャリンたる者が、まるでツェルビネッタが着るのに相応しいような、つまり踊り子が着るような短いスカート丈のドレスを着せられていたことからも、この演出家の「戯画化」というのは、「所詮人間などというもの、殊に女なんていうものは高潔とは無縁で、あばずれと紙一重」という貶め方なのだなと、私は感じました。

この辺りこそ、フェミニズムの観点から問題提起されて然るべき点であり、ジョーンズの意図に適うことなのではないでしょうか。モハメッドがマルシャリンの次の相手なのかどうかは、このことの延長線上であって、この演出家の発する大元の性的なテーマ抜きに云々しても、あまり意味はないような気がします。

舞台上の人物たちの動かし方と所作の付け方については、楽しめた部分もありました。確かにこういう音楽だよね、ということが視覚化されてもいました。ですが、「音楽も台本もよく解っている演出」というのは、音楽の動機付けにいちいち呼応して演技を付けることと同義ではありません。「ここぞ」という音楽のところで「ここぞ」という振りを付けることで、初めて聴き手をハッとさせる「解釈」たりえるものです。「この語に、この音」という感動を聴く者にもたらすことのできる歌唱芸術とは、単に「こういう言葉のときに、こういう旋律で歌われている」という知識だけの問題ではないのです。この意味で、音楽で饒舌に語られていることを所作でもなぞらせる手法は、いわば屋上屋を架す行為に等しく、「やり過ぎ」だったなというのが率直な感想です。

歌手を、歌を、音楽を信頼せずにオペラの演出は成立しません。今回の演出家はこのどれも信用できず、細かい演技の指示のみで全てをコントロールしようとしていたらしい様子が垣間見られたのは残念なことです。その結果、それに合わせることを余儀なくされた音楽も(特に第3幕で)縦線がありありと見えるものになり、流れずに仕舞った感は否めません。音楽を従にしなければ成り立たないのであれば、劇伴音楽を使って戯曲のジャンルでやればいいだけの話です。歌手から自由裁量と生き生きとした表現を奪いかねないような演技指導は、「何故オペラで敢えてそうしなければならないのか」という根拠がはっきりしていないと、先の展望にも繋がらないのではないでしょうか。

それでも、全体の印象として「ちょっと面白かったな」と感じられたのは、歌手達の健闘に他ならないでしょうし、いつも涙する三重唱ではなく、それを経た後での二重唱のほうで両日とも鼻の奥がツンツンして仕方なかったのは、この作品の主役はマルシャリンでも勿論オックスでもなく、ばらの騎士であるという演出家の意図に、結局やられてしまったからなのだろうということは告白しておきます。
(2017/07/31)

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望月哲也 独演コンサート



(終演後にロビーにて。望月さんと横山さん)


日本声楽家協会主催の望月哲也独演コンサートを聴きました(2017年7月6日・於:日暮里サニーホールコンサートサロン)。ピアノは横山紘子さん。

前半は山田耕筰と柴田南雄の日本歌曲。私の立場としては三木露風と北原白秋、そして立原道造の詩による歌曲と言ったほうがしっくり来るのが正直なところで、実際のところ前半のお目当ては立原道造/柴田南雄の《優しき歌》でした。立原に関しては思うところが沢山あるので心して聴いたのは勿論ですが、1曲目と2曲目の三木露風/山田耕筰の《樹立》《野薔薇》に射抜かれました。《樹立》のドラマティックな歌い出し。《野薔薇》を望月さんが歌うと、その詩が「荒れ野に呼ばわる者の声がする」という聖書(イザヤ書)の記述を思い起こさせ、やはりこのひとはエヴァンゲリストなのかと、改めて思いを深くしました。

後半のシュトラウス、1曲目の《献呈》を歌い出したときは、ああ、これまで馴染んできていた望月さんの歌だと、ホッとするような思いすらしたもののそれも束の間のことで、どんどん歌が、場の空気が拡がっていって、ドイツ歌曲も明らかにこれまでとは違う響きが会場に満ちました。6年前に望月さんが録音されたシュトラウスのCDは発売早々に入手して、以来もう擦り切れるほど聴いているのですが、もはやその時とは全く異なる位相に立っておられるのだと、ひしひしと感じました。

MC時の望月さんによれば、「シュトラウスの歌曲は音域が広く2オクターブくらい使うのだが、自分は低い声がなくなってきている」とのことでしたが、聴いている感触ではむしろ中低域の表現にハッと胸を衝かれる場面が多く、ということはやはり表現が深くなっているのでは、と感じます。聴きながら、このひとは今まさに変容を遂げているさなかなのではないか、という思いにずっと浸っていましたが、それもあながち的外れではなかったということでしょうか。

終演後のやり取りのなかで、もしかしたら望月さんご自身はご自分の表現にまだまだ納得していらっしゃらないのかなという印象を受けたのですが、ピアノの横山さんは「同じ空間を感じられて幸せでした」と仰っていて、やはりそうでないとあれだけの音空間は現出しないだろう、私の感じ方も勘違いではなかったのだろうと思います。

シューベルトとシュトラウスは違うとのお話もあり、それは全くその通りなのですが、あの2月に白寿ホールで聴いた、絶望と透徹した眼差しで寒気がするほどの歌唱だった《冬の旅》といい、今回のリサイタルといい、天与の美声のみならず音楽と言葉の内奥にどんどん分け入って、作品の核の内側から表現しようとなさっていると感じます。文学の領域にも根を張ってきているのだなと、文学の「こちら側」で驚嘆とともに見つめる思いです。見つめるというよりも、気づいたら心に深く根ざしてしまっていた、と言ったほうが当たっているでしょうか。

つれづれに書き連ねてしまいましたが、要は望月さんと横山さんが織りなす音楽に中ってしまったのだということなのでしょう。幸せなリーダーアーベントでした。
(2017/07/07)

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