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東京二期会《ばらの騎士》




東京二期会の《ばらの騎士》を観ました(7月27、29日 於:東京文化会館)。

プログラムに載っていた演出家リチャード・ジョーンズのインタビューは読まずに2日とも観たのですが、このオペラで描かれている人物配置を全て戯画化しようとしているのだろうという意図は伝わってきました。そして、その手段としてエロティシズムを用いていることも。

第1幕は全裸のマルシャリンが湯浴みするシーン…というのは上品な書き方で、実際には公園かどこかの安っぽい噴水かと見紛うようなシャワーシーンで始まります。髪型もローブ姿も見分けがつき難く似た雰囲気にしつらえられたオクタヴィアンとの絡みは、まるで姉妹かレズビアンのようにも感じられる仕草で、その後フロイト(プログラムにもはっきりクレジットされています)が登場し、そして明らかに「フロイトの椅子」に仰向けにマルシャリンが横たわるのを見るにつけ、これはジェンダーの枠組みを壊す意図があるのだろうと察せられました。フロイトはホフマンスタールらと同時代人なので、この演出の時代設定をホフマンスタールやシュトラウスが生きていた「現代」に定めているとしたら、十分に整合性があると言えます。

第2幕のファーニナル邸の金ピカ噴水は、もちろん成り上がり貴族の象徴としても使われていたのでしょうが、オックスの息子レオポルトがやおら靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、それを「FANINAL」のロゴに麗々しく(?)引っ掛けて裸足で水の中に入る、するとオックスの家来がファーニナル家の召使い達に手を出す騒ぎになる。これが意味するものも、はっきりしています。

第1幕のシャワーと第2幕での噴水。言うまでもなく「水」はフロイト的解釈では性的なコノテーションを持つものです。第1幕では、マルシャリンが身体を洗うのに使ったスポンジをモハメッドがこっそり絞り、それを飲み干す所作まで見られました。これだけ露骨かつ明確に演出家からのメッセージが発せられているのに、この「性的」な視点が、見た限りの感想で取り上げられていないのは不思議としか言いようがありません。実際、プログラムのインタビューでも「ジェンダー・ポリティクス」という語に言及されているのが見られますし、マルシャリンたる者が、まるでツェルビネッタが着るのに相応しいような、つまり踊り子が着るような短いスカート丈のドレスを着せられていたことからも、この演出家の「戯画化」というのは、「所詮人間などというもの、殊に女なんていうものは高潔とは無縁で、あばずれと紙一重」という貶め方なのだなと、私は感じました。

この辺りこそ、フェミニズムの観点から問題提起されて然るべき点であり、ジョーンズの意図に適うことなのではないでしょうか。モハメッドがマルシャリンの次の相手なのかどうかは、このことの延長線上であって、この演出家の発する大元の性的なテーマ抜きに云々しても、あまり意味はないような気がします。

舞台上の人物たちの動かし方と所作の付け方については、楽しめた部分もありました。確かにこういう音楽だよね、ということが視覚化されてもいました。ですが、「音楽も台本もよく解っている演出」というのは、音楽の動機付けにいちいち呼応して演技を付けることと同義ではありません。「ここぞ」という音楽のところで「ここぞ」という振りを付けることで、初めて聴き手をハッとさせる「解釈」たりえるものです。「この語に、この音」という感動を聴く者にもたらすことのできる歌唱芸術とは、単に「こういう言葉のときに、こういう旋律で歌われている」という知識だけの問題ではないのです。この意味で、音楽で饒舌に語られていることを所作でもなぞらせる手法は、いわば屋上屋を架す行為に等しく、「やり過ぎ」だったなというのが率直な感想です。

歌手を、歌を、音楽を信頼せずにオペラの演出は成立しません。今回の演出家はこのどれも信用できず、細かい演技の指示のみで全てをコントロールしようとしていたらしい様子が垣間見られたのは残念なことです。その結果、それに合わせることを余儀なくされた音楽も(特に第3幕で)縦線がありありと見えるものになり、流れずに仕舞った感は否めません。音楽を従にしなければ成り立たないのであれば、劇伴音楽を使って戯曲のジャンルでやればいいだけの話です。歌手から自由裁量と生き生きとした表現を奪いかねないような演技指導は、「何故オペラで敢えてそうしなければならないのか」という根拠がはっきりしていないと、先の展望にも繋がらないのではないでしょうか。

それでも、全体の印象として「ちょっと面白かったな」と感じられたのは、歌手達の健闘に他ならないでしょうし、いつも涙する三重唱ではなく、それを経た後での二重唱のほうで両日とも鼻の奥がツンツンして仕方なかったのは、この作品の主役はマルシャリンでも勿論オックスでもなく、ばらの騎士であるという演出家の意図に、結局やられてしまったからなのだろうということは告白しておきます。
(2017/07/31)

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