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《優しき歌》と《詩人の恋》





来たる11月18日(土)に、信州松本のあがたの森文化会館講堂(旧松本高等学校講堂)で、テノールの望月哲也さんとリサイタルを開きます。

メインはハイネ/シューマンの《詩人の恋》ですが、いま壁にぶつかっているのが、前プロの立原道造/柴田南雄の《優しき歌》。原詩の朗読も、歌曲の歌唱も当然のことながら全く同じ日本語のテクストです。

朗読は、演者がテクストを直接解釈しその解釈のままに読むことができます。が、歌曲となると、歌い手以前にまず作曲者による詩の解釈があるわけです。歌い手自身の解釈も表現に必須なのは勿論ですが、作曲者による解釈としての作品がある以上、そこに「枠」が存在することは否めません。

朗読者と作曲者の解釈が異なる場合はどうするのか。そこが問題なわけです。今回の『優しき歌』には、単に「個人による見解の相違」だけでは済まされない断絶が存在するものがあります。「さびしき野辺」という詩がそれで、「野辺」という言葉(野原、火葬場、埋葬地、墓地。野辺送り)、「私」に花の名をささやいて行った「誰か」、「さびしき野辺」に「もつれ飛ぶ蝶」…これらから想起されるのは、明らかに「死」や「死者の魂」です。しかし、柴田の曲からは、どう贔屓目に見ても「死の影」を聴き取ることは難しいのです。むしろ、恋人と一緒に草原で蝶を追っているような長閑な曲想。立原が結核を患っていたという背景を柴田が意識し、敢えて憩いの場面を描いたのかも知れないと好意的に解したとしても、曲から受ける印象のこの相違ばかりは、もはや個人の好みという域ではなく、文学者としての譲れない一線を画すべきものです。しかし、音楽の力というのは非常に強いものであるとも、今さらながら感じています。たとえ私が死の世界に立って読んだとしても、長閑な曲想で歌われたら(しかも、望月哲也の表現力をもって歌われたら!)、聴き手に残るのは「長閑さ」のほうだろうと思います。



(信濃追分にある立原のレリーフ)


今回ご一緒いただく望月さんは、言葉に対する追究の深さの凄い方で、私が最も信頼する声楽家のお一人です。誰にでも言えることではありませんが、望月さんには「私は音楽に憧れて焦がれているけれども、文学作品として読むときは、音楽に規定されたくはないのだ!」という姿勢はお伝えしてあります。さて、どうなりますか。

公演は11月18日(土)17:00より、一般4000円、学生2000円。チケットぴあで発売中です(Pコード:336-077)。会場はJR松本駅から徒歩15分ほどです。どうぞお越しください。
(2017/10/15)

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