文学雑感

望月哲也/福田進一《冬の旅》





はるばる信濃の国から上京し、ピアノではなくギターと共演する「望月哲也 シューベルト三大歌曲シリーズ 」の、「vol. 1 冬の旅」を聴きました(2月18日/白寿ホール)。

第1曲「おやすみ Gute Nacht」歌い出しの "fremd(よそ者)"という語から、Wanderer の孤独な心の叫びのような…と言っても、あからさまな嘆きではなく、絶望と既に諦念が背中合わせになっているような、そしてどこか透徹した眼差しをも感じさせるような透き通った声で始まり、ゾクッとしました。これは言葉と音楽が融合した、声楽にのみなし得る世界だと、息が止まるかと思いました。ああ、もうこれを聴けただけで今日は帰ってもいい、と感じたほどです。かように冒頭から耽溺し、終曲の「辻音楽師 Der Leiermann」で辻音楽師に連れて行かれてしまった次第。

ギタリストは言わずと知れた福田進一さん。福田さんの奏でる柔らかい音に寄り添う望月さんの声。いまさら言わずもがなですが、歌曲の場合は「伴奏」ではなく、デュオと言っても差し支えないほど、ピアノ(今回はギター)パートは重要です。弦楽器の、殊に撥弦楽器の宿命とも言える、曲の途中であっても刻々と変化するチューニングにも、望月さんがどこまでも繊細に反応し、独特な響きの世界を創り上げていくさまは、もはや感動などというものは超越していました。

望月さんの歌は、ここのところ聴くたびに変わっている印象があります。以前は聴く者に降り注ぐような、或いは包むような声。とある知人は「心の襞に入ってきて満たされるような声」と言っていました。これは言い得て妙だと思ったものです。今回は、まるでギターの胴体まで響かせるような、そして聴き手の心臓の内側も響かせてともに鼓動するような、歌に乗せられた言葉が直に共鳴するような感覚を覚えました。この人は何かとてつもない領域に踏み出しているのではないかとすら思えます。

アンコールは楽器をイタリアものからフランスものに持ち替えての、第21曲「宿 Das Wirtshaus」をふたたび。楽器の音色の違いのせいなのかどうか、寒気がするほどの歌唱で、これはまさに歌われている「冷たい宿(=墓)」なのだろうかと、思わず身震いをしてしまったほど。



(楽譜にサインして頂きました)


福田さんとシューベルトと言えば、かつてフルートの工藤重典さん(だったと思います…間違っていたらごめんなさい)と《アルペジョーネ・ソナタ》を演奏なさったのが思い出深く、「編曲しながら、シューベルトはギターかマンドリンを爪弾きながら曲を付けたのではないかと思えるほどしっくり来た」というような内容のことをお話しになっていたのが印象的でした。そんな福田さんご自身の編曲による《冬の旅》を、ン十年(笑!)の時を経て聴けたことに感慨を覚えます。



(当日配られた対訳)


また、いつもながら望月さんご自身の対訳も興味深く拝読。「興味深く」などと書くと何だかエラそうですが(^^;、「これは敵わないなぁ」という部分も多く、また勿論「見解の相違」の部分も散見され(笑)、本当に「興味深い」としか言いようがないのです。ただ一つ、望月訳が素晴らしいなと思うのは、声に出して読んでみると、とても読みやすく、すんなり入っていけるものになっていることです。我々ゲルマ二ストは、恐らく大なり小なり「後ろから訳し上げず、できるだけドイツ語の語順を生かして訳す」という方法を取ると思います。殊に詩の場合には私もできるだけ原詩の詩行に忠実に、と思ってしまうのですが、そうするとどうしても日本語としてはぎこちないものになってしまい、原語が解る人ならともかく、そうでない人には分かりにくい日本語になりかねません。そのあたり、口の端に乗せやすい日本語にする望月さんは、さすがに表現者なのだなぁと、こんなところにも感服した、まだ浅き春の宵でした。
(2017/02/19)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

R. シュトラウス・シンポジウム論考集 御礼



(会場だった関西大学千里山キャンパス第一学舎)


昨年2015年5月31日に日本独文学会春季研究発表会で行ったシュトラウス・シンポジウム。その成果としてまとめた日本独文学会研究叢書を、10月22、23日に関西大学で開催された秋季研究発表会で配布しました。約200部あったものが、残ったのは何とたったの33部でした。



(右端のうす緑色のが私どもの叢書)


これで漸く、構想から数えると足かけ2年半のシュトラウス・シンポジウムに一区切りが付きました。しかも、望外の上首尾で。

評判というものは、意外と当事者の耳には直接届かないもので、ずいぶん経ってから「あのシンポジウムはすごく評判良かったですよね」と言われて「えっ、そうなんですか!? そうだったのなら嬉しいです」と、謙遜でも何でもなく本当に驚いたこともあったくらいです。それが今回、このように目に見える形で結果を出すことができて、自分でも意外なほどホッとし力が抜けて、その晩はいい気分で酔っ払ってしまいました(笑)。



(最終的な残部はこの33冊!)


正直に言えば、これまでは(今でもですが)決して平坦な道のりではなく、「こんな研究は意味がない」というような厳しいことを言われたり、心ない言葉で揶揄されることも少なからずありました。迎合したほうがよほど楽ではないかと、挫けかけたこともあります。でも不思議とその度に新しい出会いがあったり、別の機会への手を差し伸べられたりと助けられることが多く、何とか自分の思う道を歩んで来ることができたのです。

そのようにして細々と続けてきた研究をまとめたものが、これだけの部数捌けたということは、言うまでもなくそれだけ興味を持って頂けたということで、私の方向性は決して独善的でもなければ、間違ってもいなかったということなのだなと、心底安堵し、じんわりと喜びを噛み締めています。

もちろんこれは私などの力ではなく、演劇学の北川千香子さん、音楽学の広瀬大介さん、声楽家の望月哲也さんという(アイウエオ順です! 偶然シンポジウムでの発表順でもありますが…笑)、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、名実ともに日本を代表する優秀な研究者・音楽家のお陰に他なりません。私などの呼びかけに快く応じてくださって、どうもありがとう。この顔ぶれが決まった時は、「私にできるんだろうか?」と震える思いも実はありました(告白)。でも皆さんのお陰でとても明るく楽しく、常に前向きな雰囲気で準備を進めることができて、この経験は一生のお宝です。



(左から、北川・望月・広瀬の各氏)


そして、私にこの機会というか指令を与えてくださった武蔵大学教授(今や副学長!)である光野正幸先生、この、漬け物石のように頑固でいつまで経っても不肖の弟子である私を、今もってお引き回しくださって、本当にどうもありがとうございます。少しはご恩返しができたようなら、とても嬉しいです。



(宅急便で送り返す覚悟もしていたのが、小ぶりのエコバッグでお持ち帰り可、という嬉しい結果に。)


そして、関心を持って昨年のシンポジウムを聴きにお出でくださった方々、今回の学会会場で研究叢書を手に取ってくださった方々に心より感謝申し上げます。
(2016/10/25)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Stimme vol. 5 『風立ちぬ』終了



(竹風堂善光寺大門店3Fにある、大門ホールの控え室窓から望む)


昨日、見事な秋晴れに恵まれた日に、朗読コンサート Stimme vol. 5 を開催いたしました。





演目は、堀辰雄の名作中の名作、『風立ちぬ』。以前、堀の『大和路・信濃路』から「樹下」を読んだことはあったのですが、やはりこれだけの大作に挑むのにはかなりの勇気が必要でした。

今回、共演して頂いたヴァイオリニストの外山陽子さんとチェリストの宮澤等さんのお二方にサジェッションを頂き、耳に馴染みやすい曲をテーマ音楽のように扱ってみることにしました。そこで選んだのが、「庭の千草」の邦題で知られるアイルランド民謡の《夏の名残の薔薇》。これを、ヴァイオリン旋律・チェロ旋律・ヴァイオリン独奏・チェロ独奏とさまざまなヴァリエーションで、しかも場面によって奏法も変化させて頂き、とても効果を上げることができました。



(左から、チェリスト宮澤等さん、ヴァイオリニスト外山陽子さん、朗読者野口)


堀の文体というのは一種独特で、リズムがありながら、どこか良い意味でのトラップがあったりします。音楽で言えば装飾音があるような(?)。うっかり見切り発車で勝手に読むと、この罠にはまってしまうため、とことん、堀の文章に集中して対峙しないと、読ませてくれないのです。そこが堀文学の、情緒的でありながらも芯の強いところなのだろうかと、今回改めて感じました。

自然の描写も、自我のフィルターを通したヨーロッパ的なもので、日本的な花鳥風月の描き方とも異なり、自然の中に在る自分・自然を見つめ食い込んで行くような視線で捉えられています。

家人に指摘されて「そ、そうかな!?」と自分でたじろいでしまうのは、「読み方が恐ろしい」と。これは私の文学者としての、それも日本文学ではなくてドイツ文学者としての性のようなものかも知れないのですが、私が作品から引き出して伝えたいと思うのは、描写の(いわば表面上の)美しさだけではなく、その「美しさ」の根幹にあるものであって、それにアプローチしたいともがいているわけです。

それを「怖い」と評されてしまうのは、まだまだ深め方も実力も足りないということですが、この過程を経た上での「美しさ」を表現できて初めて、それは「美しい」ということになるのだという信念を持っています。

私は珠を転がすような美声の持ち主でもなければ、スラスラと流麗に読める器用なタイプでもなく、常にもがき憧れてジタバタしているような冴えない人間なのですが、そこに音楽があると、やはり救われるような気がするのです。(2016/10/17)


【今後の予定】
☆12月11日・ヴィオラ奏者中山良夫氏と宮澤賢治『よだかの星』(山形)

☆12月26日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とパウル・ツェラン『声たち』(翻訳/野口)他(長野)

☆12月27日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とミュラー『冬の旅』(翻訳/野口)他(黒姫)

☆2017年2月5日・中山良夫(ヴィオラ)高橋牧子(ピアノ)の両氏と、立原道造『優しき歌』、堀辰雄『浄瑠璃寺の春』(さいたま)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Stimme vol. 5 に向けて



(朗読テクストと楽譜をつき合わせながら。)



10月16日(日)に、長野市の善光寺参道にある竹風堂大門ホールで、朗読コンサート Stimme vol. 5 を行います。演目は、堀辰雄の代表作『風立ちぬ』です。

今回は、長野にゆかりのある演奏家である、ヴァイオリニストの外山陽子さん、チェリストの宮澤等さんのお二人と共演します。

先日、長野市にある小出音楽事務所様に場所を提供して頂き、私が作った叩き台を基に、全体の構成の確認と、それに適ったバランスを考慮しながらの選曲作業を行いました。




(スマホでたちどころに候補に挙がった曲を呼び出すチェリストと、譜面でのチェックを怠らないヴァイオリニスト。)



「三人寄れば文殊の知恵」とはよく言ったもので、つぎつぎに興味深いアイディアが出て、とても充実したミーティングになりました。次回の打ち合わせは、実際に声と音を出しながらになる予定です。

良い公演になる予感です。どうぞお楽しみに!
(2016/06/25)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【日本独文学会会員および関係者のみなさま】





写真にあります、日本独文学会研究叢書115、本来であれば明日28日と明後日29日の春季研究発表会期間中に会場の獨協大学でお配りする予定でしたが、印刷会社側のミスによる落丁があったため、現在刷り直し中です。明日明後日には間に合わないそうなので、学会側のご配慮により変則的ではありますが、10月22、23日に関西大学で行われます秋季研究発表会会場でお配りすることとなりました。

ご迷惑をおかけいたします。刷り直したものの納品は近いうちになされると思いますので、執筆者の方々にはお送りできると思います。
(2016/05/27)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

R. シュトラウス・シンポジウム論考集

2015年もそろそろおしまい。今年は本当にいろいろなご縁に恵まれ、多くの実りある仕事をさせて頂いております。

5月に日本独文学会の全国大会で行ったR. シュトラウス・シンポジウムは、私の積年の念願が、自分として考え得る限り最高の形で実現した大舞台でした。改めて関わってくださった方たちに心から感謝いたします。



(広瀬・望月両氏による本番前の音合わせ)


そして現在、この成果を形にするべく、シンポジスト一同論文作成に励んでおります。日本独文学会の研究叢書として、ISBNの付く正式な刊行物となります。



(若き才能!)


世に出るのは来春になりますが、締め切り間際のこの苦しい状況のなかでも、懐かしく盛り上がったりしています。今回、私は編集責任者でかなりあたふたしているのですが、広瀬大介さんのキャラクターに癒されております(笑)。思えば、このシンポジウムも広瀬さんの気配りでとてもスムーズに進行したのでした。私一人では、とてもあのように好ましい形でまとまらなかったと思います。



(右端おじゃま虫^^;)



(発起人?の光野正幸先生を交え、シンポジスト顔合わせの一コマ)


素晴らしい仲間に恵まれたこと、何ものにも代えがたい一生の宝です。どうもありがとうございました。
(2015/12/14)

【ボーナストラック】
意気投合するシュトラウス研究者とシュトラウス歌い。もっちーに「ねえ、撮って撮って」とせがまれた一枚(笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本独文学会@鹿児島大学



(鹿児島大学の歓迎立て看板)

10月3日、日本独文学会の秋季研究発表会(全国大会)で発表をするため、鹿児島大学へ行きました。心配された爆弾低気圧も支障なく、予定通りの快適フライトでKOJに到着、桜島も穏やかで美しい姿を見せていました。


(鹿児島大学のゆるキャラ二体...違)


(今回の演題)

今回の発表テーマは、これまでの私とはガラリと変わって、Anatomie (anatomy)です。私は病理解剖医であったゴットフリート・ベンの抒情詩《モルグ(遺体安置所)》について、ベン自身の詩論『創作の告白』を手掛かりに、創作をする際のベンの対象との向き合い方、言葉の持つ意味などに触れつつ報告を行いました。既訳では漠然として内容がよく判らない部分が多いため原文に当たってみたものの、やはりよく解らない。これはやはり医学的な知識がないとベンの描いたことが理解できないのではないだろうか?という疑問が出発点でした。


(今回の共同演者)

「ドイツ語ではこんなようなことが書いてあるのだけれど、臓器の位置関係や解剖の作法が解らないと、グロテスクな描写の中に潜むベンの抒情性も解らないのではないか。」

実際、解剖学者にそれらの疑問をぶつけ、レクチャーを受けながら読み返してみると、改めて解剖医であったベンの詩人としての、そして科学者としての透徹した視線を再発見した思いがしました。ベンが観照していたであろう光景が鮮やかさを増したように感じたのです。

そして、解剖学者の意見をききながら改訳を試みたものを、既訳とともに会場でお配りしました。その「再発見」をどこまで反映できたかは、まだまだ推敲の余地があるのは無論のことですが、発表後にお話しに来てくださった先生がたに概ね好評で、ほっと胸をなで下ろしました。生野幸吉先生の既訳にある意味挑むという、大胆な試みであっただけに、「ベンがどういうことを描いているのかがよく解りました。これは一つの成果ですよ」と言っていただき、嬉しかったです。


(ここのお店は、肝吸いではなく肝味噌汁!)

発表の後は、鰻で昼ビー。コップ焼酎が170円という天国のような(笑)。その後、白熊も制覇。


(これでベビーサイズ。)

今回の発表ではもちろん課題も新たに見つかり、それを宝として今後に繋げたいと思います。
(2015/10/04)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

軽井沢大賀ホール【追記あり】





梅雨入りし湿度の高い日が続くなか、爽やかな高原の風が吹く軽井沢へ行って来ました。





目的地は大賀ホールです。秋山雅子先生の朗読レッスンを受けるために、大賀ホール内にある演奏者ラウンジへ。秋山先生のご尽力により、ホールから文化活動に認定して頂き、格安で利用させて頂けることになったのです。まさか自分が大賀ホールの利用者になる日がやって来ようとは・・・。人生、何が起こるか分かりません。





レッスン内容は6月28日に行う朗読コンサートの練習で、今日はメインの《よだかの星》を読み込みました。セリフの部分が苦手な私に模範を示してくださり、当然とはいえ厳然と立ちはだかる実力の差に唖然としながらも、何とか自分のエンジンを空ぶかし(苦笑)して奮闘しました。

秋山先生は、私が JILA(国際芸術連盟)の朗読オーディションを受けた時に審査員をなさっておいででした。ご縁があって、個人的に朗読のレッスンを受けられるようになったわけですが、先生との出逢いは、間違いなく私の人生の中での転換点になると思います。私のごとき、よだかのように風采の上がらない不器用な人間を、こんなに引き揚げてくださる方が現れるなぞ、1年前に考えられたでしょうか。





レッスンの後は、瀟洒な珈琲屋でランチを頂きつつ、お互いの研究の話などをしました。秋山先生は、朗読を実践するだけでなく研究の対象にもなさっており、発想の豊かさ、その発想を形にするためのアクションの取り方、そして実現と成果に繋げる思慮深さと探究心の強さに、刺激を受ける・・・などと言うのもおこがましいような、眩しさすら感じました。

私でも役に立つことがあるのか、ささやかでも社会に還元できることがあるのだろうか、という漠とした不安・・・自身の存在への自信のなさから来る疑問に、常に怯えているようなところがあるのですが、そんな自分の危機の時に支えとなって来たのが、文学でした。音楽も勿論なのですが、依怙地な私の内面を深いところから支えてくれるのは、やはり何よりも文学なのです。その文学から受け取ったものを、何らかの形で残せたら、という思いで、無様ではありますがこれからも歩み続けようと思います。








音楽は言葉を超える、とはよく言われることですが、私の念頭に常にあるのは、「言葉の音楽性/音楽のメッセージ性」です。個人的には優劣はないと考えています。自分にとってどちらがしっくり来るか、という問題に過ぎません。私にとっては、言葉は音楽ですらあります。そのことは朗読をするようになって痛いほど感じています。言葉の響き・文章のリズムをどこまで感じ取り、どこまで表現できるのか。我ながら、困難な道に入り込んでしまったものだと呆れますが、探求は続きます。
(2015/06/15)

【追記】
秋山先生のブログでもご紹介頂きました!

さらに、当日は先生のなさっているインターネット・ラジオ「ドルチェタイム♪」で取材もして頂きました。突然のことで動揺しまくっていますが(^^;。よだか、そのまんまの無様さです^^;;
(2015/06/16)

| | トラックバック (0)

Stimme vol. 2 レクチャー・コンサート終了





台風が近づくなか、Stimme vol. 2 フーゴー・フォン・ホフマンスタール生誕140周年記念レクチャー・コンサートを開催いたしました。個人的には大小の事故があり、反省点も山盛りですが、皆さまのご理解に支えられて無事に終えることができ、今は幸せな気持ちでおります。

今回もヴィオラ奏者・中山良夫先生の演奏が素晴らしく、いろいろな面で助けて頂きました。心より感謝いたします。こういった精神的な面でもやはり私は弟子なのだなと改めて感じます。







実は、中山先生はご不幸をおしてご出演くださいました。ご事情は数週間前から伺っており「何があってもやるから」とおっしゃって頂いていました。ですが本番前日にお知らせを受け取り、私も少なからず動揺しました。今回のプログラムを考えたときには勿論このようなことになるとは考えてもいなかったわけですが、ストラヴィンスキーの《エレジー》で始まり、続いてホフマンスタールの詩「無常について」を朗読するという構成でした。

哀しみが静かに水面(みなも)に広がってゆくような《エレジー》を受けて「無常について」を読む・・・少し震えを感じながらの朗読となりました。私は「この悲しさのメッセンジャーで、お客さんに届ける役」なのだとある人に言われたのですが、その大役が務まったかどうか・・・。「表現」するためには、いろいろなことを受け止めることもできなければならない。これまでにも漠然と感じていたことではありますが、今回は痛いほどにそのことを感じました。なおかつ、本来はそれを「表現」にまで高めなければならないわけで、私はまだまだ力不足でした。







終演後に慶應の後輩たちと打ち上げをした際、演劇でもオペラでも、照明や音響の効果を扱う技術は今の若者たちは器用で大したものだけれど、幕切れで「え? それで?」と消化不良の疑問を感じさせてしまうものが多過ぎて、その時点でいかがなものかと思ってしまう、やはり台本つまりテクストが力を持っていなければ劇場や舞台は衰退すると感じる、と言った後輩がいました。それは恐らく、私が感じている「表現」と通ずるものがあるだろうと思います。その後輩は「思想も信条もない、そういう年代の子たちの現状なのだろうと感じている」という言い方をしていましたが、確かに自分の中に核となるものがなく、戸惑っていることの現れとしての「表面的で器用にまとめられた(?あちらこちらにとっ散らかったままのものも見受けられるようですが)形骸」的表象になってしまっているのかも知れません。

その解決策として最も重要なのは、その後輩も言っているように、やはり「テクスト」なのだろうと思います。ですから、R. シュトラウスにとってもホフマンスタールが必要であったのだろう、ホフマンスタールのテクストであったからこそ、あのような傑作ができたのだろうと今更ながら再認識しました。

テクスト(文学作品)の持つ根源的な力というものは、時代を超えて働きかけてくるものです。それを軽んじた解釈が消化不良になるのは当然の帰結であって、このような指摘を「テクスト偏重の保守あるいは旧弊」という言葉で退けようとするのは、事の本質を見失いかねない、とても勿体ない、暴力的ですらある行為だと思うのです。

何故この歳になって私は朗読をするのかというと、上記のことを自分で確認したいからなのかも知れません。つまり、これまで心血を注いできた文学研究を「表現」に転換し、自分にとってもう一つの大切な表現へのアプローチである音楽との関係性も模索する、ということです。そしてそれには、共演者も大切だということも実感しています。今回お聴きくださったある方が「朗読と音楽が互いを侵食しあうことなく高めあっていて、聴いているのがどちらも楽しかった」とのご感想をお寄せくださいました。まさに私が求めているものを受け取ってくださったわけで、これは理解ある共演者を得られたからこその成果なのだ、これも共同作業なのだ、と、とても満たされた思いになりました。

この試みは、まだまだ続きます。
(2014/10/06)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

仕込み開始





リラ冷えのとある夜、池袋の地下に結集した面子。Mゼミ門下でM教授を囲む会catface

M先生とは、学会などでお会いし立ち話をすることはあっても、お酒を飲むのは実はすごく久しぶりでした。もともと弟子を自由にさせてくださるタイプなので、学生時代から相当手を焼かせたことだろうと拝察(苦笑)。今回も酒が入る毎にタガが外れていく不遜な弟子。

しかし、幾つになっても指導教授は指導教授。結局アタマ上がらず、酒を飲んでお店を出てきた時には、とある密命(←大袈裟)を帯びていました(笑)。

一部では水面下で接触を図り、どんなテーマにしようか妄想ふくらみ中(≧∇≦)
(2014/05/27)

| | コメント (0) | トラックバック (0)