文学雑感

東京二期会《ばらの騎士》




東京二期会の《ばらの騎士》を観ました(7月27、29日 於:東京文化会館)。

プログラムに載っていた演出家リチャード・ジョーンズのインタビューは読まずに2日とも観たのですが、このオペラで描かれている人物配置を全て戯画化しようとしているのだろうという意図は伝わってきました。そして、その手段としてエロティシズムを用いていることも。

第1幕は全裸のマルシャリンが湯浴みするシーン…というのは上品な書き方で、実際には公園かどこかの安っぽい噴水かと見紛うようなシャワーシーンで始まります。髪型もローブ姿も見分けがつき難く似た雰囲気にしつらえられたオクタヴィアンとの絡みは、まるで姉妹かレズビアンのようにも感じられる仕草で、その後フロイト(プログラムにもはっきりクレジットされています)が登場し、そして明らかに「フロイトの椅子」に仰向けにマルシャリンが横たわるのを見るにつけ、これはジェンダーの枠組みを壊す意図があるのだろうと察せられました。フロイトはホフマンスタールらと同時代人なので、この演出の時代設定をホフマンスタールやシュトラウスが生きていた「現代」に定めているとしたら、十分に整合性があると言えます。

第2幕のファーニナル邸の金ピカ噴水は、もちろん成り上がり貴族の象徴としても使われていたのでしょうが、オックスの息子レオポルトがやおら靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、それを「FANINAL」のロゴに麗々しく(?)引っ掛けて裸足で水の中に入る、するとオックスの家来がファーニナル家の召使い達に手を出す騒ぎになる。これが意味するものも、はっきりしています。

第1幕のシャワーと第2幕での噴水。言うまでもなく「水」はフロイト的解釈では性的なコノテーションを持つものです。第1幕では、マルシャリンが身体を洗うのに使ったスポンジをモハメッドがこっそり絞り、それを飲み干す所作まで見られました。これだけ露骨かつ明確に演出家からのメッセージが発せられているのに、この「性的」な視点が、見た限りの感想で取り上げられていないのは不思議としか言いようがありません。実際、プログラムのインタビューでも「ジェンダー・ポリティクス」という語に言及されているのが見られますし、マルシャリンたる者が、まるでツェルビネッタが着るのに相応しいような、つまり踊り子が着るような短いスカート丈のドレスを着せられていたことからも、この演出家の「戯画化」というのは、「所詮人間などというもの、殊に女なんていうものは高潔とは無縁で、あばずれと紙一重」という貶め方なのだなと、私は感じました。

この辺りこそ、フェミニズムの観点から問題提起されて然るべき点であり、ジョーンズの意図に適うことなのではないでしょうか。モハメッドがマルシャリンの次の相手なのかどうかは、このことの延長線上であって、この演出家の発する大元の性的なテーマ抜きに云々しても、あまり意味はないような気がします。

舞台上の人物たちの動かし方と所作の付け方については、楽しめた部分もありました。確かにこういう音楽だよね、ということが視覚化されてもいました。ですが、「音楽も台本もよく解っている演出」というのは、音楽の動機付けにいちいち呼応して演技を付けることと同義ではありません。「ここぞ」という音楽のところで「ここぞ」という振りを付けることで、初めて聴き手をハッとさせる「解釈」たりえるものです。「この語に、この音」という感動を聴く者にもたらすことのできる歌唱芸術とは、単に「こういう言葉のときに、こういう旋律で歌われている」という知識だけの問題ではないのです。この意味で、音楽で饒舌に語られていることを所作でもなぞらせる手法は、いわば屋上屋を架す行為に等しく、「やり過ぎ」だったなというのが率直な感想です。

歌手を、歌を、音楽を信頼せずにオペラの演出は成立しません。今回の演出家はこのどれも信用できず、細かい演技の指示のみで全てをコントロールしようとしていたらしい様子が垣間見られたのは残念なことです。その結果、それに合わせることを余儀なくされた音楽も(特に第3幕で)縦線がありありと見えるものになり、流れずに仕舞った感は否めません。音楽を従にしなければ成り立たないのであれば、劇伴音楽を使って戯曲のジャンルでやればいいだけの話です。歌手から自由裁量と生き生きとした表現を奪いかねないような演技指導は、「何故オペラで敢えてそうしなければならないのか」という根拠がはっきりしていないと、先の展望にも繋がらないのではないでしょうか。

それでも、全体の印象として「ちょっと面白かったな」と感じられたのは、歌手達の健闘に他ならないでしょうし、いつも涙する三重唱ではなく、それを経た後での二重唱のほうで両日とも鼻の奥がツンツンして仕方なかったのは、この作品の主役はマルシャリンでも勿論オックスでもなく、ばらの騎士であるという演出家の意図に、結局やられてしまったからなのだろうということは告白しておきます。
(2017/07/31)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

静岡で舞台三昧



(完売公演)

『1940 ーーリヒャルト・シュトラウスの家ーー』(4月29日・静岡芸術館)。午前中の野平(音楽)・宮城(演出)・大岡(脚本)の三氏による鼎談では、宮城さんのお考えに共鳴するところが多かったです。

「演劇と音楽との境目がよく判らないような作品を目指す」という野平さんの言葉に期待しましたが、実際にはかなり偏って演劇主体でした。音楽の挿入の仕方もどちらかというと異化効果のような役割で、《ナクソス島のアリアドネ》初演時はこんな感じで受け取られたのかと思ったり。

史実を積み重ねて或る形にする、というのは何と困難なことか、という面にも思いを馳せずにはいられませんでした。年表や資料としてではなく、脚本、すなわち人間の言葉に変換し生命を吹き込むことによって再現するのは並大抵のことではありません。鼎談での大岡氏のご発言からは、どうも共同作業という感じでもなかったようで、今回を「緒に就いた」と位置付けようとするならば、シュトラウスのように共同作業を試みる必要性も感じました。

大岡氏の言うように「昨今の風潮は作者の能書きではなく、作品そのものを提示することで勝負しないと許されない」というのはまことにその通りで、それこそが芸術作品の生命であり力だということを再確認したことでした。





そして、夕方からは場所を静岡芸術劇場に移して『ウェルテル!』を観ました。シュテーマンの演出で、ホーホマイヤーの一人芝居。





これが、良かった。とても良かった。ゲーテすげえと思いました。ホーホマイヤー演ずるウェルテルは、中二病的可愛らしさと危うさがよく表現されており、読み換え演出でしたが、ウェルテルの苦悩Leiden の本質を掬い取って現代にも通ずる解釈がされていたと思います。現代に読み替えてもメッセージ性を損なわない原作のゲーテ作品のタフさも勿論ありますけれど、シュテーマンの慧眼と、普遍性を持った解釈からなる再構築だったゆえなのでしょう。深みのある、思い出に残る上演でした。
(2017/04/29)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

望月哲也/福田進一《冬の旅》





はるばる信濃の国から上京し、ピアノではなくギターと共演する「望月哲也 シューベルト三大歌曲シリーズ 」の、「vol. 1 冬の旅」を聴きました(2月18日/白寿ホール)。

第1曲「おやすみ Gute Nacht」歌い出しの "fremd(よそ者)"という語から、Wanderer の孤独な心の叫びのような…と言っても、あからさまな嘆きではなく、絶望と既に諦念が背中合わせになっているような、そしてどこか透徹した眼差しをも感じさせるような透き通った声で始まり、ゾクッとしました。これは言葉と音楽が融合した、声楽にのみなし得る世界だと、息が止まるかと思いました。ああ、もうこれを聴けただけで今日は帰ってもいい、と感じたほどです。かように冒頭から耽溺し、終曲の「辻音楽師 Der Leiermann」で辻音楽師に連れて行かれてしまった次第。

ギタリストは言わずと知れた福田進一さん。福田さんの奏でる柔らかい音に寄り添う望月さんの声。いまさら言わずもがなですが、歌曲の場合は「伴奏」ではなく、デュオと言っても差し支えないほど、ピアノ(今回はギター)パートは重要です。弦楽器の、殊に撥弦楽器の宿命とも言える、曲の途中であっても刻々と変化するチューニングにも、望月さんがどこまでも繊細に反応し、独特な響きの世界を創り上げていくさまは、もはや感動などというものは超越していました。

望月さんの歌は、ここのところ聴くたびに変わっている印象があります。以前は聴く者に降り注ぐような、或いは包むような声。とある知人は「心の襞に入ってきて満たされるような声」と言っていました。これは言い得て妙だと思ったものです。今回は、まるでギターの胴体まで響かせるような、そして聴き手の心臓の内側も響かせてともに鼓動するような、歌に乗せられた言葉が直に共鳴するような感覚を覚えました。この人は何かとてつもない領域に踏み出しているのではないかとすら思えます。

アンコールは楽器をイタリアものからフランスものに持ち替えての、第21曲「宿 Das Wirtshaus」をふたたび。楽器の音色の違いのせいなのかどうか、寒気がするほどの歌唱で、これはまさに歌われている「冷たい宿(=墓)」なのだろうかと、思わず身震いをしてしまったほど。



(楽譜にサインして頂きました)


福田さんとシューベルトと言えば、かつてフルートの工藤重典さん(だったと思います…間違っていたらごめんなさい)と《アルペジョーネ・ソナタ》を演奏なさったのが思い出深く、「編曲しながら、シューベルトはギターかマンドリンを爪弾きながら曲を付けたのではないかと思えるほどしっくり来た」というような内容のことをお話しになっていたのが印象的でした。そんな福田さんご自身の編曲による《冬の旅》を、ン十年(笑!)の時を経て聴けたことに感慨を覚えます。



(当日配られた対訳)


また、いつもながら望月さんご自身の対訳も興味深く拝読。「興味深く」などと書くと何だかエラそうですが(^^;、「これは敵わないなぁ」という部分も多く、また勿論「見解の相違」の部分も散見され(笑)、本当に「興味深い」としか言いようがないのです。ただ一つ、望月訳が素晴らしいなと思うのは、声に出して読んでみると、とても読みやすく、すんなり入っていけるものになっていることです。我々ゲルマ二ストは、恐らく大なり小なり「後ろから訳し上げず、できるだけドイツ語の語順を生かして訳す」という方法を取ると思います。殊に詩の場合には私もできるだけ原詩の詩行に忠実に、と思ってしまうのですが、そうするとどうしても日本語としてはぎこちないものになってしまい、原語が解る人ならともかく、そうでない人には分かりにくい日本語になりかねません。そのあたり、口の端に乗せやすい日本語にする望月さんは、さすがに表現者なのだなぁと、こんなところにも感服した、まだ浅き春の宵でした。
(2017/02/19)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

R. シュトラウス・シンポジウム論考集 御礼



(会場だった関西大学千里山キャンパス第一学舎)


昨年2015年5月31日に日本独文学会春季研究発表会で行ったシュトラウス・シンポジウム。その成果としてまとめた日本独文学会研究叢書を、10月22、23日に関西大学で開催された秋季研究発表会で配布しました。約200部あったものが、残ったのは何とたったの33部でした。



(右端のうす緑色のが私どもの叢書)


これで漸く、構想から数えると足かけ2年半のシュトラウス・シンポジウムに一区切りが付きました。しかも、望外の上首尾で。

評判というものは、意外と当事者の耳には直接届かないもので、ずいぶん経ってから「あのシンポジウムはすごく評判良かったですよね」と言われて「えっ、そうなんですか!? そうだったのなら嬉しいです」と、謙遜でも何でもなく本当に驚いたこともあったくらいです。それが今回、このように目に見える形で結果を出すことができて、自分でも意外なほどホッとし力が抜けて、その晩はいい気分で酔っ払ってしまいました(笑)。



(最終的な残部はこの33冊!)


正直に言えば、これまでは(今でもですが)決して平坦な道のりではなく、「こんな研究は意味がない」というような厳しいことを言われたり、心ない言葉で揶揄されることも少なからずありました。迎合したほうがよほど楽ではないかと、挫けかけたこともあります。でも不思議とその度に新しい出会いがあったり、別の機会への手を差し伸べられたりと助けられることが多く、何とか自分の思う道を歩んで来ることができたのです。

そのようにして細々と続けてきた研究をまとめたものが、これだけの部数捌けたということは、言うまでもなくそれだけ興味を持って頂けたということで、私の方向性は決して独善的でもなければ、間違ってもいなかったということなのだなと、心底安堵し、じんわりと喜びを噛み締めています。

もちろんこれは私などの力ではなく、演劇学の北川千香子さん、音楽学の広瀬大介さん、声楽家の望月哲也さんという(アイウエオ順です! 偶然シンポジウムでの発表順でもありますが…笑)、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、名実ともに日本を代表する優秀な研究者・音楽家のお陰に他なりません。私などの呼びかけに快く応じてくださって、どうもありがとう。この顔ぶれが決まった時は、「私にできるんだろうか?」と震える思いも実はありました(告白)。でも皆さんのお陰でとても明るく楽しく、常に前向きな雰囲気で準備を進めることができて、この経験は一生のお宝です。



(左から、北川・望月・広瀬の各氏)


そして、私にこの機会というか指令を与えてくださった武蔵大学教授(今や副学長!)である光野正幸先生、この、漬け物石のように頑固でいつまで経っても不肖の弟子である私を、今もってお引き回しくださって、本当にどうもありがとうございます。少しはご恩返しができたようなら、とても嬉しいです。



(宅急便で送り返す覚悟もしていたのが、小ぶりのエコバッグでお持ち帰り可、という嬉しい結果に。)


そして、関心を持って昨年のシンポジウムを聴きにお出でくださった方々、今回の学会会場で研究叢書を手に取ってくださった方々に心より感謝申し上げます。
(2016/10/25)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Stimme vol. 5 『風立ちぬ』終了



(竹風堂善光寺大門店3Fにある、大門ホールの控え室窓から望む)


昨日、見事な秋晴れに恵まれた日に、朗読コンサート Stimme vol. 5 を開催いたしました。





演目は、堀辰雄の名作中の名作、『風立ちぬ』。以前、堀の『大和路・信濃路』から「樹下」を読んだことはあったのですが、やはりこれだけの大作に挑むのにはかなりの勇気が必要でした。

今回、共演して頂いたヴァイオリニストの外山陽子さんとチェリストの宮澤等さんのお二方にサジェッションを頂き、耳に馴染みやすい曲をテーマ音楽のように扱ってみることにしました。そこで選んだのが、「庭の千草」の邦題で知られるアイルランド民謡の《夏の名残の薔薇》。これを、ヴァイオリン旋律・チェロ旋律・ヴァイオリン独奏・チェロ独奏とさまざまなヴァリエーションで、しかも場面によって奏法も変化させて頂き、とても効果を上げることができました。



(左から、チェリスト宮澤等さん、ヴァイオリニスト外山陽子さん、朗読者野口)


堀の文体というのは一種独特で、リズムがありながら、どこか良い意味でのトラップがあったりします。音楽で言えば装飾音があるような(?)。うっかり見切り発車で勝手に読むと、この罠にはまってしまうため、とことん、堀の文章に集中して対峙しないと、読ませてくれないのです。そこが堀文学の、情緒的でありながらも芯の強いところなのだろうかと、今回改めて感じました。

自然の描写も、自我のフィルターを通したヨーロッパ的なもので、日本的な花鳥風月の描き方とも異なり、自然の中に在る自分・自然を見つめ食い込んで行くような視線で捉えられています。

家人に指摘されて「そ、そうかな!?」と自分でたじろいでしまうのは、「読み方が恐ろしい」と。これは私の文学者としての、それも日本文学ではなくてドイツ文学者としての性のようなものかも知れないのですが、私が作品から引き出して伝えたいと思うのは、描写の(いわば表面上の)美しさだけではなく、その「美しさ」の根幹にあるものであって、それにアプローチしたいともがいているわけです。

それを「怖い」と評されてしまうのは、まだまだ深め方も実力も足りないということですが、この過程を経た上での「美しさ」を表現できて初めて、それは「美しい」ということになるのだという信念を持っています。

私は珠を転がすような美声の持ち主でもなければ、スラスラと流麗に読める器用なタイプでもなく、常にもがき憧れてジタバタしているような冴えない人間なのですが、そこに音楽があると、やはり救われるような気がするのです。(2016/10/17)


【今後の予定】
☆12月11日・ヴィオラ奏者中山良夫氏と宮澤賢治『よだかの星』(山形)

☆12月26日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とパウル・ツェラン『声たち』(翻訳/野口)他(長野)

☆12月27日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とミュラー『冬の旅』(翻訳/野口)他(黒姫)

☆2017年2月5日・中山良夫(ヴィオラ)高橋牧子(ピアノ)の両氏と、立原道造『優しき歌』、堀辰雄『浄瑠璃寺の春』(さいたま)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Stimme vol. 5 に向けて



(朗読テクストと楽譜をつき合わせながら。)



10月16日(日)に、長野市の善光寺参道にある竹風堂大門ホールで、朗読コンサート Stimme vol. 5 を行います。演目は、堀辰雄の代表作『風立ちぬ』です。

今回は、長野にゆかりのある演奏家である、ヴァイオリニストの外山陽子さん、チェリストの宮澤等さんのお二人と共演します。

先日、長野市にある小出音楽事務所様に場所を提供して頂き、私が作った叩き台を基に、全体の構成の確認と、それに適ったバランスを考慮しながらの選曲作業を行いました。




(スマホでたちどころに候補に挙がった曲を呼び出すチェリストと、譜面でのチェックを怠らないヴァイオリニスト。)



「三人寄れば文殊の知恵」とはよく言ったもので、つぎつぎに興味深いアイディアが出て、とても充実したミーティングになりました。次回の打ち合わせは、実際に声と音を出しながらになる予定です。

良い公演になる予感です。どうぞお楽しみに!
(2016/06/25)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【日本独文学会会員および関係者のみなさま】





写真にあります、日本独文学会研究叢書115、本来であれば明日28日と明後日29日の春季研究発表会期間中に会場の獨協大学でお配りする予定でしたが、印刷会社側のミスによる落丁があったため、現在刷り直し中です。明日明後日には間に合わないそうなので、学会側のご配慮により変則的ではありますが、10月22、23日に関西大学で行われます秋季研究発表会会場でお配りすることとなりました。

ご迷惑をおかけいたします。刷り直したものの納品は近いうちになされると思いますので、執筆者の方々にはお送りできると思います。
(2016/05/27)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

R. シュトラウス・シンポジウム論考集

2015年もそろそろおしまい。今年は本当にいろいろなご縁に恵まれ、多くの実りある仕事をさせて頂いております。

5月に日本独文学会の全国大会で行ったR. シュトラウス・シンポジウムは、私の積年の念願が、自分として考え得る限り最高の形で実現した大舞台でした。改めて関わってくださった方たちに心から感謝いたします。



(広瀬・望月両氏による本番前の音合わせ)


そして現在、この成果を形にするべく、シンポジスト一同論文作成に励んでおります。日本独文学会の研究叢書として、ISBNの付く正式な刊行物となります。



(若き才能!)


世に出るのは来春になりますが、締め切り間際のこの苦しい状況のなかでも、懐かしく盛り上がったりしています。今回、私は編集責任者でかなりあたふたしているのですが、広瀬大介さんのキャラクターに癒されております(笑)。思えば、このシンポジウムも広瀬さんの気配りでとてもスムーズに進行したのでした。私一人では、とてもあのように好ましい形でまとまらなかったと思います。



(右端おじゃま虫^^;)



(発起人?の光野正幸先生を交え、シンポジスト顔合わせの一コマ)


素晴らしい仲間に恵まれたこと、何ものにも代えがたい一生の宝です。どうもありがとうございました。
(2015/12/14)

【ボーナストラック】
意気投合するシュトラウス研究者とシュトラウス歌い。もっちーに「ねえ、撮って撮って」とせがまれた一枚(笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本独文学会@鹿児島大学



(鹿児島大学の歓迎立て看板)

10月3日、日本独文学会の秋季研究発表会(全国大会)で発表をするため、鹿児島大学へ行きました。心配された爆弾低気圧も支障なく、予定通りの快適フライトでKOJに到着、桜島も穏やかで美しい姿を見せていました。


(鹿児島大学のゆるキャラ二体...違)


(今回の演題)

今回の発表テーマは、これまでの私とはガラリと変わって、Anatomie (anatomy)です。私は病理解剖医であったゴットフリート・ベンの抒情詩《モルグ(遺体安置所)》について、ベン自身の詩論『創作の告白』を手掛かりに、創作をする際のベンの対象との向き合い方、言葉の持つ意味などに触れつつ報告を行いました。既訳では漠然として内容がよく判らない部分が多いため原文に当たってみたものの、やはりよく解らない。これはやはり医学的な知識がないとベンの描いたことが理解できないのではないだろうか?という疑問が出発点でした。


(今回の共同演者)

「ドイツ語ではこんなようなことが書いてあるのだけれど、臓器の位置関係や解剖の作法が解らないと、グロテスクな描写の中に潜むベンの抒情性も解らないのではないか。」

実際、解剖学者にそれらの疑問をぶつけ、レクチャーを受けながら読み返してみると、改めて解剖医であったベンの詩人としての、そして科学者としての透徹した視線を再発見した思いがしました。ベンが観照していたであろう光景が鮮やかさを増したように感じたのです。

そして、解剖学者の意見をききながら改訳を試みたものを、既訳とともに会場でお配りしました。その「再発見」をどこまで反映できたかは、まだまだ推敲の余地があるのは無論のことですが、発表後にお話しに来てくださった先生がたに概ね好評で、ほっと胸をなで下ろしました。生野幸吉先生の既訳にある意味挑むという、大胆な試みであっただけに、「ベンがどういうことを描いているのかがよく解りました。これは一つの成果ですよ」と言っていただき、嬉しかったです。


(ここのお店は、肝吸いではなく肝味噌汁!)

発表の後は、鰻で昼ビー。コップ焼酎が170円という天国のような(笑)。その後、白熊も制覇。


(これでベビーサイズ。)

今回の発表ではもちろん課題も新たに見つかり、それを宝として今後に繋げたいと思います。
(2015/10/04)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

軽井沢大賀ホール【追記あり】





梅雨入りし湿度の高い日が続くなか、爽やかな高原の風が吹く軽井沢へ行って来ました。





目的地は大賀ホールです。秋山雅子先生の朗読レッスンを受けるために、大賀ホール内にある演奏者ラウンジへ。秋山先生のご尽力により、ホールから文化活動に認定して頂き、格安で利用させて頂けることになったのです。まさか自分が大賀ホールの利用者になる日がやって来ようとは・・・。人生、何が起こるか分かりません。





レッスン内容は6月28日に行う朗読コンサートの練習で、今日はメインの《よだかの星》を読み込みました。セリフの部分が苦手な私に模範を示してくださり、当然とはいえ厳然と立ちはだかる実力の差に唖然としながらも、何とか自分のエンジンを空ぶかし(苦笑)して奮闘しました。

秋山先生は、私が JILA(国際芸術連盟)の朗読オーディションを受けた時に審査員をなさっておいででした。ご縁があって、個人的に朗読のレッスンを受けられるようになったわけですが、先生との出逢いは、間違いなく私の人生の中での転換点になると思います。私のごとき、よだかのように風采の上がらない不器用な人間を、こんなに引き揚げてくださる方が現れるなぞ、1年前に考えられたでしょうか。





レッスンの後は、瀟洒な珈琲屋でランチを頂きつつ、お互いの研究の話などをしました。秋山先生は、朗読を実践するだけでなく研究の対象にもなさっており、発想の豊かさ、その発想を形にするためのアクションの取り方、そして実現と成果に繋げる思慮深さと探究心の強さに、刺激を受ける・・・などと言うのもおこがましいような、眩しさすら感じました。

私でも役に立つことがあるのか、ささやかでも社会に還元できることがあるのだろうか、という漠とした不安・・・自身の存在への自信のなさから来る疑問に、常に怯えているようなところがあるのですが、そんな自分の危機の時に支えとなって来たのが、文学でした。音楽も勿論なのですが、依怙地な私の内面を深いところから支えてくれるのは、やはり何よりも文学なのです。その文学から受け取ったものを、何らかの形で残せたら、という思いで、無様ではありますがこれからも歩み続けようと思います。








音楽は言葉を超える、とはよく言われることですが、私の念頭に常にあるのは、「言葉の音楽性/音楽のメッセージ性」です。個人的には優劣はないと考えています。自分にとってどちらがしっくり来るか、という問題に過ぎません。私にとっては、言葉は音楽ですらあります。そのことは朗読をするようになって痛いほど感じています。言葉の響き・文章のリズムをどこまで感じ取り、どこまで表現できるのか。我ながら、困難な道に入り込んでしまったものだと呆れますが、探求は続きます。
(2015/06/15)

【追記】
秋山先生のブログでもご紹介頂きました!

さらに、当日は先生のなさっているインターネット・ラジオ「ドルチェタイム♪」で取材もして頂きました。突然のことで動揺しまくっていますが(^^;。よだか、そのまんまの無様さです^^;;
(2015/06/16)

| | トラックバック (0)