文学雑感

一夜限りの「詩人の恋」終了



(終演後、舞台の上で記念撮影)


「一夜限りの『詩人の恋』」、お陰さまで大過なく終了致しました。改めまして、ご来場くださった方々、終演後に色々な手段で温かい言葉をかけてくださった方々、気にかけてくださった方々、そして何より、私の酔狂な企画に参加してくださった望月哲也さんと横山紘子さんに、心より御礼申し上げます。望月さんのコンディションも上々、横山さんのピアノも美しく、お聴き頂いた皆さまはさぞ感動なさったことだろうと確信しております。

私はと言えば、さすがに疲れてはいますが、本番前に自分で想像していた(本番中を含めた)心境とかなり違っていて、自分でも少々意外な気分で過ごしています(^^;

本番では、きっととても気分が高揚して泣きそうになるのではないかと予想していたのですが、実際には(もちろん緊張はしていましたが)さほど上がることもなく、感情の起伏もそれほどなく^^;、自分比淡々と読み、自分比冷静(?)に音楽を聴いて、粛々と終えた、という感じです。それでも、終演後に声を掛けてくださったびよら姉弟子さまや大学オケの先輩には抱きついてしまったので、やはり何らかの感情の動きはあったのであろうと思量しています。

打ち上げでは「丸周」さんに大層良くしていただきました。改めて感謝致します。私の女好きが露呈してしまうという想定外の展開になったりしましたが(爆)、美味しく楽しいひと時を過ごせました。疲れ過ぎて無表情だったと思いますが、どうかご寛恕のほどお願い申し上げます(_ _ ;



(最後の合同練習)


今回、改めて思ったのは、自分の専門分野に確固とした軸足を置くことの大切さです。異分野との交流は刺激的であり、得るものも多いですが、自分の専門を見失うことのないよう、流されることのないよう、客観的な視点を保たなければ、と痛感しました。

これを糧に、一研究者として、思索と考察をまた一歩深められれば幸甚です。

本当にどうもありがとうございました。

2017年11月19日 野口方子



(デザイナーの真子さんより頂きました。)

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詩人の恋



(地元のお店にポスターを貼って頂いております)


いよいよ来週に迫ってきました、「一夜限りの詩人の恋」。立原道造とハインリヒ・ハイネの2人の「詩人の恋」を、テノールの望月哲也さんの歌に乗せてお届けします。文字通り、松本でだけの公演になります。

夏の初合わせから、いつの間にやらもう秋!(という一節が立原の詩にございます…)

「いつの間に もう秋! 昨日は
夏だった……おだやかな陽気な
陽ざしが 林のなかに ざはめいてゐる
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに」
(柴田が曲をつけなかった『また落葉林で』の第1連)



(夏の日の初合わせ風景)



(こちらはとある秋の日の都内某所での練習風景。圧倒される朗読者による激写…笑)


歌手・ピアニスト・朗読者3人の一致した意見は、「立原って難しい」「アタマで理解しようとするとダメっぽい」ということでした。頭でっかちな野口は少々難儀しておりますが、さすがは望月哲也、其処此処で朗読に寄せて歌ってくるという離れ業をなさっていて、内心たまげている朗読者です。ご期待くださいヽ(;▽;)



(チケットは、チケットぴあでも発売中です)

(2017/11/12)

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柴田南雄の《優しき歌》






前回書いたように、婚約者水戸部アサイを置いて立原は漂泊の旅に出ます。漂泊と言えばすぐに思い浮かぶのが、漂泊の魂 ーー ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』ですが、実際、これについてもアサイ宛の書簡に言及が見られます。

「おまへはクヌルプをよんだだらうか。あの漂泊の魂を。僕はおまへがヘルマン・ヘッセのところへ行くことをねがふ。
(…)
僕には ひとつの魂が課せられてゐる。どこか無限の、とほくに行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして それに耐へて。だが、その魂は決して愛する者を裏切ることには耐へない。別離が一層に大きな愛だといふこと、そして僕の漂泊の意味。おまへにも また、これに耐へよと 僕はいふ。僕たちの愛が、いま ひとつの 大きな別離であるゆゑに。」(昭和13年9月1日付水戸部アサイ宛書簡)

この書簡に書かれている経緯が投影された詩が『夢のあと』に続く『また落葉林で』であり、この詩の第2連でうたわれている「そしていま おまへは 告げてよこす /私らは別離に耐へることが出来る と」という詩行は、まさにこのことを表しています。立原とアサイの愛の行方の分水嶺とも言えるのが『また落葉林で』なのです。

しかしながら柴田は『また落葉林で』には付曲せず、『夢のあと』から『樹木の影に』まで、実に4篇の詩を飛ばしています。詩集『優しき歌』成立の背景として重要な詩を抜かしたことに、当初は疑問を抱かざるを得ませんでした。





先の post で『さびしき野辺』での解釈の齟齬について書きましたが、時々ふとした折に自分の内で『落葉林で』の中の「ごらん かへりおくれた /鳥が一羽 低く飛んでゐる」という言葉の背景で、ピアノが奏でる鳥の囀りと羽の音が清(さや)かに蘇り、身体じゅうが痺れるほどの共感を覚えるにつけ、この曲が終戦直後に書かれたことを考えても、死と隣り合わせで生きて来た柴田は、死への恐怖や拙劣な生への執着を超えた美しい音楽を求めたのかも知れない、と考えるに至りました。むしろ、凄惨な戦争を生き延びた柴田が、なおもロマンティシズムを失わず、このように瑞々しくもドラマティックな曲を書いたということのほうに、積極的な意味を見出したほうが良いのではないだろうか…と。だからこそ、まばゆい光に満ち溢れた『樹木の影に』で、このツィクルスを閉じたのではないでしょうか。





前出の『また落葉林で』の最後の2行で、「しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし…… /かへつて来て みたす日は いつかへり来る?」とうたわれている、「みたす日」が帰り来たのであろう『樹木の影に』をもって、この歌曲集は終えられたのではないか。この考えを自分の中のひとつの決着点にすることで、少し柴田の音楽に歩み寄れる気がしてきたのでした。
(2017/11/01)

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立原道造『優しき歌』



(立原も堀口大學の翻訳でヴェルレーヌを読んだらしい)


『優しき歌』は、婚約者水戸部アサイのために編まれた詩集で、ヴェルレーヌの『優しい歌(堀口大學の訳による)』に倣ったと立原本人も述べており、ヴェルレーヌのこの詩集にはフォーレが曲を付けた歌曲集もあります。立原自身、まるで楽譜のような装幀のスケッチを遺しているほどなのですが、私個人の感覚だと、立原の詩には、ヴェルレーヌよりもリルケのほうが、そしてフォーレよりもドビュッシーのほうに親和性を感じます。



(信濃追分の秋)


『優しき歌』の「序の歌」では、冒頭で「おまへは どこから 来て /どこへ 私を過ぎて /消えて 行く?」と詠われ、第3連終わりでは「おまへ 優しい歌よ /私のうちの どこに 住む?」と問いかけ、最終の第4連では「それをどうして おまへのうちに /私はかへさう」と応え、さらに「夜ふかく /明るい闇の みちる時に?」と謎に満ちた自問自答で終わります。

第1連の「どこへ」、そして第4連最終行の「明るい闇」とは何かということを探るヒントが、立原の書簡に見られます。

「高い空には、砂のような巻雲が、さらさらとながれてゐる。地の上にも、光とかげとが美しい。花はしづかに溢れてゐる。けふは夏の日のをはり。もう秋の日のはじめ。大きな大きな身ぶりを描いて、不思議なひびきが空を過ぎる。しかし、僕らが明日を知らないこと!
ただ出発だ。どこへ? だれのために?」

これは水戸部アサイに宛てられた昭和13年9月4日付の書簡です。手紙ですら、このまま詩になるような立原の文章に溜め息が出ますが、この自問自答は、以下のように手紙を宛てたアサイの内へと帰結します。

「僕には信じられないくらゐの 不思議な美しい夏。それは、もうふたたびはくりかへしも出来なければ語ることも出来ないだらう。ただ出発! どこへ? おまへへ! 一層ふかく『僕ら』へ!」

しかしそれでも、そう記した立原は、この恋人を置いて尚も北に向かうのです。





「どこへ?」ーー wohin? ーー これは立原文学を理解するための一つのキーワードなのですが、これも明らかにゲーテの「dahin! 彼方へ!」の影響を受けているでしょう。「君よ知るや檸檬の花咲く国」…『ヴィルヘルム・マイスター』中のミニョンの歌として、あまりに有名な詩の一節です。立原がまず向かったのは北の盛岡でしたが、そのあと南の長崎に行っていることも興味深いです。南への憧れからイタリアを目指したゲーテは、『イタリア紀行』で「原植物 die Urpflanze」というある種の概念を発見したと記しますが、立原が見たものは何だったのでしょうか。
(2017/10/30)

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《優しき歌》と《詩人の恋》





来たる11月18日(土)に、信州松本のあがたの森文化会館講堂(旧松本高等学校講堂)で、テノールの望月哲也さんとリサイタルを開きます。

メインはハイネ/シューマンの《詩人の恋》ですが、いま壁にぶつかっているのが、前プロの立原道造/柴田南雄の《優しき歌》。原詩の朗読も、歌曲の歌唱も当然のことながら全く同じ日本語のテクストです。

朗読は、演者がテクストを直接解釈しその解釈のままに読むことができます。が、歌曲となると、歌い手以前にまず作曲者による詩の解釈があるわけです。歌い手自身の解釈も表現に必須なのは勿論ですが、作曲者による解釈としての作品がある以上、そこに「枠」が存在することは否めません。

朗読者と作曲者の解釈が異なる場合はどうするのか。そこが問題なわけです。今回の『優しき歌』には、単に「個人による見解の相違」だけでは済まされない断絶が存在するものがあります。「さびしき野辺」という詩がそれで、「野辺」という言葉(野原、火葬場、埋葬地、墓地。野辺送り)、「私」に花の名をささやいて行った「誰か」、「さびしき野辺」に「もつれ飛ぶ蝶」…これらから想起されるのは、明らかに「死」や「死者の魂」です。しかし、柴田の曲からは、どう贔屓目に見ても「死の影」を聴き取ることは難しいのです。むしろ、恋人と一緒に草原で蝶を追っているような長閑な曲想。立原が結核を患っていたという背景を柴田が意識し、敢えて憩いの場面を描いたのかも知れないと好意的に解したとしても、曲から受ける印象のこの相違ばかりは、もはや個人の好みという域ではなく、文学者としての譲れない一線を画すべきものです。しかし、音楽の力というのは非常に強いものであるとも、今さらながら感じています。たとえ私が死の世界に立って読んだとしても、長閑な曲想で歌われたら(しかも、望月哲也の表現力をもって歌われたら!)、聴き手に残るのは「長閑さ」のほうだろうと思います。



(信濃追分にある立原のレリーフ)


今回ご一緒いただく望月さんは、言葉に対する追究の深さの凄い方で、私が最も信頼する声楽家のお一人です。誰にでも言えることではありませんが、望月さんには「私は音楽に憧れて焦がれているけれども、文学作品として読むときは、音楽に規定されたくはないのだ!」という姿勢はお伝えしてあります。さて、どうなりますか。

公演は11月18日(土)17:00より、一般4000円、学生2000円。チケットぴあで発売中です(Pコード:336-077)。会場はJR松本駅から徒歩15分ほどです。どうぞお越しください。
(2017/10/15)

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東京二期会《ばらの騎士》




東京二期会の《ばらの騎士》を観ました(7月27、29日 於:東京文化会館)。

プログラムに載っていた演出家リチャード・ジョーンズのインタビューは読まずに2日とも観たのですが、このオペラで描かれている人物配置を全て戯画化しようとしているのだろうという意図は伝わってきました。そして、その手段としてエロティシズムを用いていることも。

第1幕は全裸のマルシャリンが湯浴みするシーン…というのは上品な書き方で、実際には公園かどこかの安っぽい噴水かと見紛うようなシャワーシーンで始まります。髪型もローブ姿も見分けがつき難く似た雰囲気にしつらえられたオクタヴィアンとの絡みは、まるで姉妹かレズビアンのようにも感じられる仕草で、その後フロイト(プログラムにもはっきりクレジットされています)が登場し、そして明らかに「フロイトの椅子」に仰向けにマルシャリンが横たわるのを見るにつけ、これはジェンダーの枠組みを壊す意図があるのだろうと察せられました。フロイトはホフマンスタールらと同時代人なので、この演出の時代設定をホフマンスタールやシュトラウスが生きていた「現代」に定めているとしたら、十分に整合性があると言えます。

第2幕のファーニナル邸の金ピカ噴水は、もちろん成り上がり貴族の象徴としても使われていたのでしょうが、オックスの息子レオポルトがやおら靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、それを「FANINAL」のロゴに麗々しく(?)引っ掛けて裸足で水の中に入る、するとオックスの家来がファーニナル家の召使い達に手を出す騒ぎになる。これが意味するものも、はっきりしています。

第1幕のシャワーと第2幕での噴水。言うまでもなく「水」はフロイト的解釈では性的なコノテーションを持つものです。第1幕では、マルシャリンが身体を洗うのに使ったスポンジをモハメッドがこっそり絞り、それを飲み干す所作まで見られました。これだけ露骨かつ明確に演出家からのメッセージが発せられているのに、この「性的」な視点が、見た限りの感想で取り上げられていないのは不思議としか言いようがありません。実際、プログラムのインタビューでも「ジェンダー・ポリティクス」という語に言及されているのが見られますし、マルシャリンたる者が、まるでツェルビネッタが着るのに相応しいような、つまり踊り子が着るような短いスカート丈のドレスを着せられていたことからも、この演出家の「戯画化」というのは、「所詮人間などというもの、殊に女なんていうものは高潔とは無縁で、あばずれと紙一重」という貶め方なのだなと、私は感じました。

この辺りこそ、フェミニズムの観点から問題提起されて然るべき点であり、ジョーンズの意図に適うことなのではないでしょうか。モハメッドがマルシャリンの次の相手なのかどうかは、このことの延長線上であって、この演出家の発する大元の性的なテーマ抜きに云々しても、あまり意味はないような気がします。

舞台上の人物たちの動かし方と所作の付け方については、楽しめた部分もありました。確かにこういう音楽だよね、ということが視覚化されてもいました。ですが、「音楽も台本もよく解っている演出」というのは、音楽の動機付けにいちいち呼応して演技を付けることと同義ではありません。「ここぞ」という音楽のところで「ここぞ」という振りを付けることで、初めて聴き手をハッとさせる「解釈」たりえるものです。「この語に、この音」という感動を聴く者にもたらすことのできる歌唱芸術とは、単に「こういう言葉のときに、こういう旋律で歌われている」という知識だけの問題ではないのです。この意味で、音楽で饒舌に語られていることを所作でもなぞらせる手法は、いわば屋上屋を架す行為に等しく、「やり過ぎ」だったなというのが率直な感想です。

歌手を、歌を、音楽を信頼せずにオペラの演出は成立しません。今回の演出家はこのどれも信用できず、細かい演技の指示のみで全てをコントロールしようとしていたらしい様子が垣間見られたのは残念なことです。その結果、それに合わせることを余儀なくされた音楽も(特に第3幕で)縦線がありありと見えるものになり、流れずに仕舞った感は否めません。音楽を従にしなければ成り立たないのであれば、劇伴音楽を使って戯曲のジャンルでやればいいだけの話です。歌手から自由裁量と生き生きとした表現を奪いかねないような演技指導は、「何故オペラで敢えてそうしなければならないのか」という根拠がはっきりしていないと、先の展望にも繋がらないのではないでしょうか。

それでも、全体の印象として「ちょっと面白かったな」と感じられたのは、歌手達の健闘に他ならないでしょうし、いつも涙する三重唱ではなく、それを経た後での二重唱のほうで両日とも鼻の奥がツンツンして仕方なかったのは、この作品の主役はマルシャリンでも勿論オックスでもなく、ばらの騎士であるという演出家の意図に、結局やられてしまったからなのだろうということは告白しておきます。
(2017/07/31)

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静岡で舞台三昧



(完売公演)

『1940 ーーリヒャルト・シュトラウスの家ーー』(4月29日・静岡芸術館)。午前中の野平(音楽)・宮城(演出)・大岡(脚本)の三氏による鼎談では、宮城さんのお考えに共鳴するところが多かったです。

「演劇と音楽との境目がよく判らないような作品を目指す」という野平さんの言葉に期待しましたが、実際にはかなり偏って演劇主体でした。音楽の挿入の仕方もどちらかというと異化効果のような役割で、《ナクソス島のアリアドネ》初演時はこんな感じで受け取られたのかと思ったり。

史実を積み重ねて或る形にする、というのは何と困難なことか、という面にも思いを馳せずにはいられませんでした。年表や資料としてではなく、脚本、すなわち人間の言葉に変換し生命を吹き込むことによって再現するのは並大抵のことではありません。鼎談での大岡氏のご発言からは、どうも共同作業という感じでもなかったようで、今回を「緒に就いた」と位置付けようとするならば、シュトラウスのように共同作業を試みる必要性も感じました。

大岡氏の言うように「昨今の風潮は作者の能書きではなく、作品そのものを提示することで勝負しないと許されない」というのはまことにその通りで、それこそが芸術作品の生命であり力だということを再確認したことでした。





そして、夕方からは場所を静岡芸術劇場に移して『ウェルテル!』を観ました。シュテーマンの演出で、ホーホマイヤーの一人芝居。





これが、良かった。とても良かった。ゲーテすげえと思いました。ホーホマイヤー演ずるウェルテルは、中二病的可愛らしさと危うさがよく表現されており、読み換え演出でしたが、ウェルテルの苦悩Leiden の本質を掬い取って現代にも通ずる解釈がされていたと思います。現代に読み替えてもメッセージ性を損なわない原作のゲーテ作品のタフさも勿論ありますけれど、シュテーマンの慧眼と、普遍性を持った解釈からなる再構築だったゆえなのでしょう。深みのある、思い出に残る上演でした。
(2017/04/29)

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望月哲也/福田進一《冬の旅》





はるばる信濃の国から上京し、ピアノではなくギターと共演する「望月哲也 シューベルト三大歌曲シリーズ 」の、「vol. 1 冬の旅」を聴きました(2月18日/白寿ホール)。

第1曲「おやすみ Gute Nacht」歌い出しの "fremd(よそ者)"という語から、Wanderer の孤独な心の叫びのような…と言っても、あからさまな嘆きではなく、絶望と既に諦念が背中合わせになっているような、そしてどこか透徹した眼差しをも感じさせるような透き通った声で始まり、ゾクッとしました。これは言葉と音楽が融合した、声楽にのみなし得る世界だと、息が止まるかと思いました。ああ、もうこれを聴けただけで今日は帰ってもいい、と感じたほどです。かように冒頭から耽溺し、終曲の「辻音楽師 Der Leiermann」で辻音楽師に連れて行かれてしまった次第。

ギタリストは言わずと知れた福田進一さん。福田さんの奏でる柔らかい音に寄り添う望月さんの声。いまさら言わずもがなですが、歌曲の場合は「伴奏」ではなく、デュオと言っても差し支えないほど、ピアノ(今回はギター)パートは重要です。弦楽器の、殊に撥弦楽器の宿命とも言える、曲の途中であっても刻々と変化するチューニングにも、望月さんがどこまでも繊細に反応し、独特な響きの世界を創り上げていくさまは、もはや感動などというものは超越していました。

望月さんの歌は、ここのところ聴くたびに変わっている印象があります。以前は聴く者に降り注ぐような、或いは包むような声。とある知人は「心の襞に入ってきて満たされるような声」と言っていました。これは言い得て妙だと思ったものです。今回は、まるでギターの胴体まで響かせるような、そして聴き手の心臓の内側も響かせてともに鼓動するような、歌に乗せられた言葉が直に共鳴するような感覚を覚えました。この人は何かとてつもない領域に踏み出しているのではないかとすら思えます。

アンコールは楽器をイタリアものからフランスものに持ち替えての、第21曲「宿 Das Wirtshaus」をふたたび。楽器の音色の違いのせいなのかどうか、寒気がするほどの歌唱で、これはまさに歌われている「冷たい宿(=墓)」なのだろうかと、思わず身震いをしてしまったほど。



(楽譜にサインして頂きました)


福田さんとシューベルトと言えば、かつてフルートの工藤重典さん(だったと思います…間違っていたらごめんなさい)と《アルペジョーネ・ソナタ》を演奏なさったのが思い出深く、「編曲しながら、シューベルトはギターかマンドリンを爪弾きながら曲を付けたのではないかと思えるほどしっくり来た」というような内容のことをお話しになっていたのが印象的でした。そんな福田さんご自身の編曲による《冬の旅》を、ン十年(笑!)の時を経て聴けたことに感慨を覚えます。



(当日配られた対訳)


また、いつもながら望月さんご自身の対訳も興味深く拝読。「興味深く」などと書くと何だかエラそうですが(^^;、「これは敵わないなぁ」という部分も多く、また勿論「見解の相違」の部分も散見され(笑)、本当に「興味深い」としか言いようがないのです。ただ一つ、望月訳が素晴らしいなと思うのは、声に出して読んでみると、とても読みやすく、すんなり入っていけるものになっていることです。我々ゲルマ二ストは、恐らく大なり小なり「後ろから訳し上げず、できるだけドイツ語の語順を生かして訳す」という方法を取ると思います。殊に詩の場合には私もできるだけ原詩の詩行に忠実に、と思ってしまうのですが、そうするとどうしても日本語としてはぎこちないものになってしまい、原語が解る人ならともかく、そうでない人には分かりにくい日本語になりかねません。そのあたり、口の端に乗せやすい日本語にする望月さんは、さすがに表現者なのだなぁと、こんなところにも感服した、まだ浅き春の宵でした。
(2017/02/19)

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R. シュトラウス・シンポジウム論考集 御礼



(会場だった関西大学千里山キャンパス第一学舎)


昨年2015年5月31日に日本独文学会春季研究発表会で行ったシュトラウス・シンポジウム。その成果としてまとめた日本独文学会研究叢書を、10月22、23日に関西大学で開催された秋季研究発表会で配布しました。約200部あったものが、残ったのは何とたったの33部でした。



(右端のうす緑色のが私どもの叢書)


これで漸く、構想から数えると足かけ2年半のシュトラウス・シンポジウムに一区切りが付きました。しかも、望外の上首尾で。

評判というものは、意外と当事者の耳には直接届かないもので、ずいぶん経ってから「あのシンポジウムはすごく評判良かったですよね」と言われて「えっ、そうなんですか!? そうだったのなら嬉しいです」と、謙遜でも何でもなく本当に驚いたこともあったくらいです。それが今回、このように目に見える形で結果を出すことができて、自分でも意外なほどホッとし力が抜けて、その晩はいい気分で酔っ払ってしまいました(笑)。



(最終的な残部はこの33冊!)


正直に言えば、これまでは(今でもですが)決して平坦な道のりではなく、「こんな研究は意味がない」というような厳しいことを言われたり、心ない言葉で揶揄されることも少なからずありました。迎合したほうがよほど楽ではないかと、挫けかけたこともあります。でも不思議とその度に新しい出会いがあったり、別の機会への手を差し伸べられたりと助けられることが多く、何とか自分の思う道を歩んで来ることができたのです。

そのようにして細々と続けてきた研究をまとめたものが、これだけの部数捌けたということは、言うまでもなくそれだけ興味を持って頂けたということで、私の方向性は決して独善的でもなければ、間違ってもいなかったということなのだなと、心底安堵し、じんわりと喜びを噛み締めています。

もちろんこれは私などの力ではなく、演劇学の北川千香子さん、音楽学の広瀬大介さん、声楽家の望月哲也さんという(アイウエオ順です! 偶然シンポジウムでの発表順でもありますが…笑)、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの、名実ともに日本を代表する優秀な研究者・音楽家のお陰に他なりません。私などの呼びかけに快く応じてくださって、どうもありがとう。この顔ぶれが決まった時は、「私にできるんだろうか?」と震える思いも実はありました(告白)。でも皆さんのお陰でとても明るく楽しく、常に前向きな雰囲気で準備を進めることができて、この経験は一生のお宝です。



(左から、北川・望月・広瀬の各氏)


そして、私にこの機会というか指令を与えてくださった武蔵大学教授(今や副学長!)である光野正幸先生、この、漬け物石のように頑固でいつまで経っても不肖の弟子である私を、今もってお引き回しくださって、本当にどうもありがとうございます。少しはご恩返しができたようなら、とても嬉しいです。



(宅急便で送り返す覚悟もしていたのが、小ぶりのエコバッグでお持ち帰り可、という嬉しい結果に。)


そして、関心を持って昨年のシンポジウムを聴きにお出でくださった方々、今回の学会会場で研究叢書を手に取ってくださった方々に心より感謝申し上げます。
(2016/10/25)

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Stimme vol. 5 『風立ちぬ』終了



(竹風堂善光寺大門店3Fにある、大門ホールの控え室窓から望む)


昨日、見事な秋晴れに恵まれた日に、朗読コンサート Stimme vol. 5 を開催いたしました。





演目は、堀辰雄の名作中の名作、『風立ちぬ』。以前、堀の『大和路・信濃路』から「樹下」を読んだことはあったのですが、やはりこれだけの大作に挑むのにはかなりの勇気が必要でした。

今回、共演して頂いたヴァイオリニストの外山陽子さんとチェリストの宮澤等さんのお二方にサジェッションを頂き、耳に馴染みやすい曲をテーマ音楽のように扱ってみることにしました。そこで選んだのが、「庭の千草」の邦題で知られるアイルランド民謡の《夏の名残の薔薇》。これを、ヴァイオリン旋律・チェロ旋律・ヴァイオリン独奏・チェロ独奏とさまざまなヴァリエーションで、しかも場面によって奏法も変化させて頂き、とても効果を上げることができました。



(左から、チェリスト宮澤等さん、ヴァイオリニスト外山陽子さん、朗読者野口)


堀の文体というのは一種独特で、リズムがありながら、どこか良い意味でのトラップがあったりします。音楽で言えば装飾音があるような(?)。うっかり見切り発車で勝手に読むと、この罠にはまってしまうため、とことん、堀の文章に集中して対峙しないと、読ませてくれないのです。そこが堀文学の、情緒的でありながらも芯の強いところなのだろうかと、今回改めて感じました。

自然の描写も、自我のフィルターを通したヨーロッパ的なもので、日本的な花鳥風月の描き方とも異なり、自然の中に在る自分・自然を見つめ食い込んで行くような視線で捉えられています。

家人に指摘されて「そ、そうかな!?」と自分でたじろいでしまうのは、「読み方が恐ろしい」と。これは私の文学者としての、それも日本文学ではなくてドイツ文学者としての性のようなものかも知れないのですが、私が作品から引き出して伝えたいと思うのは、描写の(いわば表面上の)美しさだけではなく、その「美しさ」の根幹にあるものであって、それにアプローチしたいともがいているわけです。

それを「怖い」と評されてしまうのは、まだまだ深め方も実力も足りないということですが、この過程を経た上での「美しさ」を表現できて初めて、それは「美しい」ということになるのだという信念を持っています。

私は珠を転がすような美声の持ち主でもなければ、スラスラと流麗に読める器用なタイプでもなく、常にもがき憧れてジタバタしているような冴えない人間なのですが、そこに音楽があると、やはり救われるような気がするのです。(2016/10/17)


【今後の予定】
☆12月11日・ヴィオラ奏者中山良夫氏と宮澤賢治『よだかの星』(山形)

☆12月26日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とパウル・ツェラン『声たち』(翻訳/野口)他(長野)

☆12月27日・ピアノ奏者大田麻佐子氏とミュラー『冬の旅』(翻訳/野口)他(黒姫)

☆2017年2月5日・中山良夫(ヴィオラ)高橋牧子(ピアノ)の両氏と、立原道造『優しき歌』、堀辰雄『浄瑠璃寺の春』(さいたま)

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